沖縄の人々は縄文人の血を全国平均より多く継承

中国人でも日本人でも、媚中史観に騙されている人は、沖縄の人は中国人と日本人の中間的な人種だと誤解している人が多い。しかし、実際には、内地の日本人の半分以上は、中国からの移民で、沖縄の人の方が縄文人の子孫が多く、中国人ともっとも似ていない。

現在の那覇市 Sean Pavone/iStock

先に大雑把に説明すると、沖縄の人々の先祖の大半は平安時代の後半以降に、奄美なども含めた南九州から農業技術をもって移住した人たちの子孫だ。それ以前から住んでいる人はいたのだが、ごく少数だった。今回は、沖縄に統一王国が成立するまでの歴史を『誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改訂版)』((清談社)からの抜粋で紹介する。

琉球言葉は日本語と同系統

沖縄の人たちが話してきた琉球言葉は、日本語と同系統の言葉だ。独立した言語として成立するためには、文法がしっかり整備されたり、辞書が編纂されたりすることが決め手だが、そこまでに至らないまま、明治時代に日本に完全併合され、本土の言葉が普及した。

書き言葉としては、鎌倉時代に日本の仮名を使っての表記が始まり、文学作品も生まれた。また、室町時代には、日本の諸勢力との間では仮名書きの文書が、明帝国とは中国語の文書がやりとりされていた。

ヤマトの言葉と沖縄の言葉とは、文法などは同じだが、発音がたいへん違う。たとえば、沖縄はヤマト言葉では「おきなわ」だが、方言では「うちなー」と聞こえる。

かつての沖縄では純粋の琉球言葉のことを「方言」と呼んでいた。学校でも、方言を使うと「方言札」を首にぶら下げさせられたりすることが戦後でも行われていた。ただ、いまは本土の言葉の沖縄訛りになってきている。

貝塚時代からグスク時代へ

沖縄では旧石器時代にすでに人が住んでおり、1967年に発見された港川原人は我が国で最初に完全な形で確認された旧石器人の遺骨で、1万8千年ほど前の人類だった。

沖縄では本土の縄文時代から平安時代までをまとめて貝塚時代という。縄文時代的な狩猟採集文化が長く続くからだ。

稲作については、遺跡は見つかっていない。沖縄は珊瑚礁の島なので水の確保が難しく、台風も来るので、稲作が伝わっても定着しなかったと思われる。

かつて柳田国男は、『海上の道』で「中国で貨幣とされた宝貝を中国南部から宮古に求めにきた人々が伝え、稲作栽培が島伝いに日本列島を北上し伝えられた」という美しいストーリーをつくった。しかし、稲作の痕跡は11世紀ごろ以前には発見されず、柳田説は完全に否定されている。

ところが、だいたい平安時代の後期である10世紀から12世紀に大きな変化が訪れる。稲作が盛んになるなど、農業社会へ変貌し始め、弥生時代が到来し、古墳時代から平安時代までは飛ばして、中世でもある「グスク(城)時代」に入ったのだ。

このころ奄美の徳之島では「亀焼」と呼ばれる須恵器のような焼き物が生産され、沖縄でも食料の備蓄に重宝された。また、長崎県産の滑石をくり抜いた石鍋ももてはやされ、食生活が変わっていったことが分かる。

貝塚時代の沖縄がどのくらい日本国家に服属していたのか、詳しいことは分からない。『続日本紀』には、714年に、種子島、屋久島、奄美大島、久米島、石垣島とおぼしき島から入貢してきたとある。鑑真和上は日本に来るときに阿児奈波島に漂着してから日本にやってきたが、これが沖縄である可能性が高そうだ。

このころ奄美まではそれなりに日本の支配が及んでいたようだが、沖縄本島となると、必要に応じて影響力を及ぼせるといった程度だったと思われる。

また、『隋書』には「流求国」についての記述があるが、これが台湾なのか南西諸島のどこかなのかも不明だが、台湾のように見える。小野妹子の一行の人が隋で琉球から持ち帰った鎧を見て夷邪久国(屋久島)のものだと言ったそうだが、これは、南西諸島から台湾にかけて似た風俗だったというだけだろう。

琉球王統と明への朝貢

琉球王国の正史で江戸時代に編纂された『中山世鑑』は、ヤマトにおける『日本書紀』のようなものだが、源頼朝の叔父で保元の乱で敗れて伊豆大島に流された源為朝が、本島北部の運天港に漂着し、大里按司という沖縄の有力者の娘と結婚して生まれた子が、琉球王家の始祖である舜天王(在位:1187~1237年)になったとしている。

これには、島津氏の支配下に入った琉球王国が、源頼朝の子孫だと称する島津氏と、主従でなく分家のような関係だと強調して地位向上を図ったという面もある。しかし、島津侵攻前からそのような伝承があったことが確認されており(1605年に袋中という人が著した『琉球神道記』にある)、源為朝かどうかは別として、南九州あたりから、農業についての知識を持ったり、武芸に優れた個人や集団がやってきて支配者となったことが多かったという歴史的な事実を示唆しているといえる。

しかし、舜天王統は3世代で終わり(1187~1259年)、英祖王統の時代となる(1260~1359年)。このころ、仏教がヤマトの禅鑑という僧によって伝わり、仮名も使い始められる。

このころの沖縄は統一が保たれていたように『中山世鑑』には書かれているが、そうではなく、のちに統一王国の首都となる浦添地方の支配者が英祖王統だったというようなことだと思う。

そして、察度王(在位:1350~1395年)という人物が現れ、これが中山王国を建国し、1368年に中国で成立した明帝国の勧めに応じて朝貢し冊封されることになる(1372年)。このころ、南部や北部でも有力な王国が現れ、糸満市の大里にあった南山王国は1380年、今帰仁の北山王国は1383年にそれぞれ明から冊封された。

尚巴志による統一王国の成立

三国鼎立時代を終わらせたのは、南山王国の有力者だった佐敷按司の尚巴志だった。佐敷はいまの南城市にある港町で、ヤマトからの船着き場として栄えていた。尚巴志は鉄を本土から仕入れ、鉄の農具を分け与えることで信望を得たという。もともとは、本島の北西にある伊平屋島の出身で、熊本県八代にも佐敷という地名があることから、ここの名和氏の末裔ともいう。

尚巴志は1406年に中山王武寧を滅ぼして父の尚思紹を王とし、1416年には北山王国を、自分が王となったあと1429年には南山王国を滅ぼして統一王国を実現した。これを第1尚氏の王統という。

「城」という漢字を沖縄で本来は「グスク」と読む。もっとも近代以降は「しろ」という和風の読み方をすることもあって、かつて高校野球の名門だった豊見城高校は「とみしろ」だが、所在地は「とみぐすく」で混在している。


誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改訂版)(清談社)

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