また田母神さんの話が炎上しているようだが、これは近代史の実証的な研究とも整合的である。
我が国の朝鮮半島、満州、台湾における統治は、欧米白人国家の植民地統治に比べれば、現地の人たちの幸せも考えた極めて穏健なものであった。それにも拘わらず戦後教育で反日、反軍感情を植え付けられた日本人は日本の悪事ばかりに目が行く。よその国がやったから日本もやっていいということにはならな…
— 田母神俊雄 (@toshio_tamogami) August 11, 2026
日本の「植民地支配」の実態をハーバード大学コリア研究所長が調査して書いた研究書によれば、日韓併合された1910年には1300万人だった朝鮮の人口は、占領末期の1942年には2550万人に倍増し、この間に工業生産は6倍以上になった。
それが単なる植民地支配ではなかったことは、日本が学校の整備に力を入れたことでもわかる。1910年には100前後しかなかった小学校が、1944年には5213校に増えた。京城帝国大学の創立は、大阪帝大や名古屋帝大より早かった。
日韓併合は避けられない選択だった
日本が朝鮮半島に進出しようとした最初のきっかけは征韓論だが、これはヨーロッパの植民地主義とは違う発想だった。明治政府が新政府の樹立にあたって、1870年に李氏朝鮮との修好を求める国書を朝鮮に届けようとしたところ、朝鮮はその受け取りを拒否した。
これに対して明治政府では、西郷隆盛が訪朝して説得すると言い出し、それに大久保利通などの主流派が反対し、これが西郷の下野するきっかけになった。これは些細な外交文書の字句の問題のようだが、当時の東アジアの主導権をめぐる論争だった。
朝鮮は李朝の伝統だった華夷秩序の概念にもとづいて朝鮮は清の臣下だと考え、日本は秩序の外にある「夷狄」だと考えていた。それに対して華夷秩序の外側にいた日本は、ヨーロッパ的な国際法にもとづいて朝鮮と条約を結ぼうとしたのだ。
そういう対立が軍事衝突に発展したのが日清戦争だが、勝敗はあっけなく決まった。宗主国が滅びようとしている華夷秩序には未来がなく、世界はヨーロッパ諸国が支配する時代になった。特に東アジアで最大の脅威となったのはロシアだった。
イギリスも日英同盟で、日本とともにロシアの脅威から満州朝鮮を守る体制をとった。アメリカは日本がそのフィリピン統治を認めるのと交換条件で、日本の韓国統治を認めた。日韓併合は避けられない選択だった。これは当時の李氏朝鮮との合法的な条約によるもので、世界各国にも承認された。
当時の朝鮮には日本との併合を求める「一進会」という団体があった。 歴史家グレゴリー・ヘンダーソンは、これを「自分の民族に対して行われた反民族主義的大衆運動」だと表現した。衰退した清朝か膨張する帝政ロシアか、改革を進める日本かの三択の中で、朝鮮にとって日本はましな選択だった。
朝鮮の植民地支配は高価な失敗
しかし日本にとって日韓併合は、高価な投資だった。朝鮮総督府はインフラ整備を進め、日本企業はよくも悪くも採算を無視して朝鮮半島に投資したが、こうしたインフラ投資を内地に回収する計画はなかった。当時の世界では植民地は永久に領土になると考えられていたので、20年や30年で回収しようとは思っていなかったのだろう。
イギリスの植民地支配は1600年に東インド会社の収益事業として始まり、 大英帝国は300年間に莫大な収益を上げたが、19世紀末に世界を分割した他のヨーロッパ諸国は、その投資を回収する前に植民地を失い、ほとんどが赤字だった。わずか35年で日本が朝鮮半島から収益を上げられるはずがなかった。
イギリスは植民地から徹底的に搾取したが、日本は植民地支配を朝鮮の「文明化」と考え、日本語を教え、日本式の名前に変えて同化させた。それは朝鮮人にとっては屈辱だったかもしれないが、多くの朝鮮人が義勇兵に競って応募した。靖国神社には2万4000人の朝鮮人兵士の霊がまつられている。
国内で組織的な独立運動が起こったわけではない。1919年の三・一事件は単なるデモ行進で、それが鎮圧されたあと李承晩が上海につくった「大韓帝国臨時政府」は単なる亡命政権で、「日帝」と戦った実態はない。
日本が中国中心の華夷秩序に挑戦したのはよかったが、それが崩壊した後どうするのかという戦略がなかった。東アジアに秩序を構築するには日本が国際法秩序の中心になるしかなかったが、その「大東亜共栄圏」は大失敗に終わった。








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