今夜のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、北野の大茶会をめぐる確執とキリシタン大名・高山右近などがテーマらしい。
このうち北野の大茶会をめぐる秀長と秀次の対立というのは、まったくのフィクションなので論評しようがない。そこで、キリシタン禁教令をめぐる話について、『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)の内容も含めて、真相を推理する。
高山右近だけがなぜ追放されたのか
秀吉の禁教令をめぐる経緯はあとで解説するが、どうして高山右近は播州明石6万石を改易され、ほかのキリシタン大名は無事だったのかは謎だが、いくつかの仮説はある。
ひとつは、秀吉が諸大名に棄教を命じたときに、たとえば、小西行長は「御意次第」と答えているし、棄教する約束をした大名もいる。
それに対して、高山右近は改易覚悟で拒否したようだ。つまり、秀吉はとくに高山右近だけを特別に問題にしたわけではなかったが、棄教を命じたときの態度が悪かったので、行きがかり上、改易せざるを得なかったという仮説も成り立つ。
しかし、最初から高山右近だけを改易にして、見せしめとするつもりだったのかもしれない。
秀吉は1587年に宣教師の渡来を禁止するとか一時的には言ったかもしれないが、結局のところ、絶対に許さないとしたのは、大名が独自の判断で領民を改宗させたり、神社仏閣を破壊したりすることだった。
これを認めると、まさにキリスト教国があちこちにできて、その大名たちが発言力を増すと厄介なことになる。そこで、仏教諸派と横並びでキリスト教が存在するあたりが限度だったとしても合理性がある。
そこで、領内での布教にとくに熱心だった高山右近が、のりを超えていると判断された可能性もある。
改易後も秀吉に仕えた高山右近
ただ、本人は切腹させられたわけではなく、しばらく小西行長の世話になり、やがて前田利家のもとに移り、1590年には秀吉から許されて前田家の客将として2万6000石を与えられ、小田原の陣にも攻め手として加わっている。
しかし、1614年に大坂冬の陣を前に、家康から国外退去を命じられ、マニラに渡航し、翌年、そこで死んだ。
秀吉がキリスト教を禁止した理由
豊臣秀吉は、九州遠征のときに、キリスト教の禁止、朝鮮や琉球王への服属要求、生糸の貿易独占、長崎の教会領回収、博多の大都市改造など、それまでの武家政権がきちんと取り組んでこなかった国際関係の調整に、矢継ぎ早に乗り出した。
秀吉の時代は、世界史でいえば大航海時代である。はるかヨーロッパから南蛮人たちがアジアへやって来て、珍しい文物を持ち込み、新しい世界についての知識を教えてくれた。しかし、彼らは西洋との交流だけでなく、東アジアの国同士の貿易も独り占めしてしまいそうだった。
キリシタン禁教令は、イエズス会の初代準管区長に任命されたガスパール・コエリョという人の軽率な行いが禍したものだ。大友宗麟とも親しかったアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、ヨーロッパの習慣にとらわれずに、日本文化に自分たちを適応させるという方法で布教に成功した。
ところが、コエリョはキリシタン大名を支援するため、フィリピンからの艦隊派遣を求めたり、日本全土を改宗させたら日本人を先兵として中国に攻め入るなどと夢想していたそうだ。そして、フスタ船(小型ガレー船。帆とオールの両方で航行)を建造して大砲を積み込み、平戸から出航し、博多にいる秀吉に見せたのだ。高山右近や小西行長は心配して、その船を秀吉に献上するようコエリョに勧めたが、彼は応じなかった。
この頃、さまざまな人がキリシタンの振る舞いについて、誹謗中傷も含んだ苦言を秀吉に持ち込んでいたところに、コエリョが秀吉との会食で威圧的な態度を見せたため、秀吉が怒って禁教令を出したのだ。
コエリョは布教活動を停止し、マニラのスペイン人に援助を要請したが、高山右近のような日本国内のキリシタン大名が秀吉に服従しているので手も出せず、天正18年(1590年)に失意のうちに平戸で死んだのは自業自得だった。
禁教しなければポルトガルの植民地にされたというのは嘘
ときどき、秀吉がキリシタンを禁止したのは、放っておくとポルトガルやスペインの植民地にされかねなかったからだ、という人がいるが、それは大げさだ。
当時のポルトガルは、ゴアだとかマラッカといった要衝を占領して拠点にしていた。明国ではマカオへの居留は認められていたが、明の領土のままだった。広い領土を治めるといったノウハウも力も、ポルトガルにはなかった。明、朝鮮、日本といった国を治めるなど無理なことだった。狙っていたのは、キリシタン大名を援助して、布教や貿易を進めようという程度だったのだ。大村氏は、南蛮船の寄港を増やすために長崎周辺を教会に寄付していたが、それも秀吉によって返還させられた。
それではどうしてキリスト教が流行ったかということだが、この時代は、武士も庶民も、古い道徳や秩序にとらわれない自由を手に入れた時代だった。そういう世相の中では、毒にも薬にもならない古い信仰より、現世利益の教えで京都の町衆たちの間に勢力を伸ばした法華宗、蓮如上人の改革で農民たちの気持ちをとらえた一向宗、そして、一神教の論理が清新だったキリスト教などが、時代的な気分に合っていたのだ。
しかし、イエス様の教えは魅力的とはいえ、南蛮人たちがそれを梃子に利益を得ようとしているということを、秀吉などは敏感に感じ取ったし、日本人を外国に奴隷として連れて行くという不愉快な噂も聞こえてきた。
そして、そういう不信感が、コエリョという愚か者の浅はかな行いを機に、キリシタン禁止令というかたちになったのだ。しかし、それほど厳しいものではなく、本格的な弾圧はオランダが日本にやって来て、カトリックを徳川家康様に誹謗中傷してからだ。
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