NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』での家康の動向は、「徳川家康と秀吉の妹の結婚は家康が望んだ?」「『豊臣兄弟!』の描く徳川家康のどこが史実と違うのか」で紹介したが、今度は、『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)などをもとに、先祖の松平親氏から家康の死までに至る、徳川家の流浪の歴史を紹介しよう。
清和源氏から新田氏、世良田氏へ
清和源氏の祖先は、9世紀後半の天皇である清和天皇である。10世紀後半、平将門の乱のころ、孫である六孫王が臣籍に下って源経基を名乗り、子孫が武士として活躍した。経基の八条邸跡は東寺の北側にあって、徳川幕府が先祖を顕彰するために創った六孫王神社として残っている。
その子満仲は、藤原摂関家と結んで財をなした。伊丹空港に近い兵庫県川西市の多田というところを本拠として、摂津源氏の祖となった。その満仲の三男に頼信があり、河内国羽曳野市を本拠にした。これが河内源氏の始まりである。
そして、その子の頼義、孫の八幡太郎義家は、東北地方で起きた前九年の役、後三年の役に東国武士を率いて活躍した。
義家の三男義国から、長男の義重が新田氏、次男義康が足利氏になった。平氏全盛のころは新田氏の方が有利だったのだが、これが災いして、源頼朝の挙兵に馳せ参じるのが遅れ、足利氏に先を越されてしまった。
その新田一族のなかに、義重の四男義季の子孫があって、群馬県太田市の南部にある上野国新田郡世良田荘と徳河荘を領地としていた。

徳川家の引っ越し地図
松平親氏の三河移住と松平家の発展
この世良田氏一族の親氏が、南朝の残党として戦い、さらには足利4代将軍義持のころ、関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に反抗して敗れた戦いに巻き込まれて、諸国放浪の旅に出て、三河へ来たとかいっていたのだろう。
足利3代将軍義満のころ、徳阿弥と称する時宗の僧がやってきた。自分は源氏の血を引く関東の名門出身だが、わけあって時宗の僧となり、諸国を放浪したのちに碧海郡坂井郷の地侍の入り婿となり、酒井氏の祖となった。そして、妻に先立たれたのち、豊田市の東のはずれにある松平郷の入り婿になった。
そして、孫の信光のときに発展し、15世紀中頃に岩津城(岡崎市岩津町)を拠点とした。さらに、1470年代前半に、親忠が安祥城(安城市安城町)を父の信光から与えられ、安祥松平家を開いた。
さらに、1523年に家督を継いだ親忠の曾孫の清康は、1524年に額田郡の旧岡崎城(岡崎市明大寺付近)を奪い、1530年頃に現岡崎城(岡崎市康生町)に本拠を移し、城下町を整備した。
その子の広忠は、清康死後の一族の争いによって岡崎を追われるが、1537年頃に今川氏の援助で岡崎城に復帰した。
家康の人質生活から浜松城、駿府城への移転
竹千代(家康)は、1542年に岡崎城で生まれたが、1547~1549年は織田信秀のもとで人質となり、ついで1549年からは、駿府(静岡市葵区)の今川義元のもとで人質生活を送った。
1560年の桶狭間の戦いのあと、今川氏から送られた城代にかわって岡崎城に復帰し、1570年に浜松城(浜松市中央区)に移るまでいて、三方原の合戦で敗北し、長篠の戦いで勝利した。ただ、岡崎城代にしていた信康が独立性を高め、家康に対抗したので切腹を命じた。
小牧・長久手の戦いを経て、1586年12月に秀吉に臣従したので、家康は駿府城(静岡市葵区)に移った。
江戸入府から伏見城、駿府での晩年へ
さらに1590年に関東に移封され、江戸城を本拠にした。ただ、家康は名護屋城や京・大坂に滞在することが多く、とくに秀吉の死後は伏見城を預かり、一時、大坂城に滞在したものの、関ヶ原の戦いののちは伏見城に定着し、そこで将軍宣下を受けた。

「豊臣兄弟!」で松下洸平さん演じる徳川家康
ただ、1606年には駿府に隠居城を築城して移った。
徳川家康の居所年譜(1590~1616年)
| 年 | 居所・移動 | 内容 |
|---|---|---|
| 1590年 | 駿府→江戸城 | 北条氏滅亡後、関東に移封。8月に江戸入府 |
| 1592~1593年 | 肥前名護屋城 | 朝鮮出兵に伴い、名護屋に長期間滞在 |
| 1590年代 | 江戸・伏見を往復 | 関東領国経営と豊臣政権の政務を両立。伏見にも屋敷を構える |
| 1598年 | 伏見 | 秀吉死去。五大老筆頭として政務に関与 |
| 1599年 | 伏見城西の丸→本丸 | 前田利家死去後、伏見城本丸に入る。政治的地位が上昇 |
| 1599年9月頃 | 伏見→大坂城西の丸 | 豊臣秀頼のいる大坂城に入り、政務の拠点とする |
| 1600年 | 大坂→江戸→関ヶ原→大坂 | 会津征伐、関ヶ原の戦いを経て大坂城西の丸に戻る |
| 1601年 | 大坂城→伏見城 | 再建された伏見城に移り、政務を執る |
| 1603年 | 伏見城 | 伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける。二条城も完成 |
| 1603~1606年 | 主として伏見城 | 江戸にも下向するが、伏見に長く滞在し、諸大名や朝廷との交渉を行う |
| 1605年 | 伏見城 | 秀忠に将軍職を譲り、大御所となる |
| 1607年 | 伏見・江戸→駿府城 | 政治活動の中心を駿府に移す |
■
【関連記事】










コメント