『誤解だらけの皇位継承の真実』(清談社)と『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)という2冊の本を書いて、歴代天皇の視点から見た戦国史というものを理解する必要があると思った。
近世の公武の関係の成立という観点からも、皇位継承の変遷を理解するためにも、この時代の出来事はとても大事だからだ。
そして、そこでの歴代天皇は南朝ではなく北朝の天皇である。現在の皇室は北朝の流れだが、歴代天皇は南朝で数え、北朝は祭祀のみをしている。しかし、このようになったのは、明治時代になってだんだんそうなったのであって、戦国時代も江戸時代も北朝を正統としていた。

南北朝
だから、ここは北朝中心の歴史観で論じていく。

土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)がのちの京都御所になった 宮内庁HPより(編集部)
北朝の成立と光厳・光明・崇光・後光厳天皇
- 北朝第1代 光厳天皇 山国郷の花の名所常照皇寺に隠棲する
- 北朝第2代 光明天皇 儒学を帝王の学問として重視
- 北朝第3代 崇光天皇 すべての宮家はここに始まる
- 北朝第4代 後光厳天皇 女院の命で践祚した異例の天皇
南朝の後醍醐天皇は、後宇多天皇の第2皇子だったが、祖父亀山上皇のもとで育てられ、天皇に即位されたときは31歳だった。
しかし、順番待ちの親王たちの周辺が後醍醐天皇の早期の譲位を期待し、鎌倉に工作をかけて天皇をいらだたせた。また、幕府では混乱もあったので、天皇は一気に行動に出られて、「正中の変」と「元弘の変」を起こされたが、失敗した。
そこで、持明院統の光厳天皇に譲位せざるを得なくなり、三種の神器も渡され、自身は隠岐に流されてしまった。つまり、北朝第1代の光厳天皇は正式に登極したのだが、あとで後醍醐天皇からは無効扱いをされた。
足利尊氏が北条氏に反逆を宣言したのち、後伏見、花園両上皇と光厳天皇は、六波羅にあった北条仲時に伴われて京を脱出されたが、近江番場宿(「瞼の母」の舞台でもある)で野武士らに囲まれ、仲時ら432人は自害し、天皇と両上皇は捕らわれた。
後醍醐天皇は詔を出されて光厳天皇を廃され、いわゆる建武新政が始まった。
光厳天皇は太上天皇の尊号を認められ、晩年は禅に没頭し、山国荘の常照皇寺に隠棲された。周山街道を高雄からさらに奥へ進んだところにあり、遅咲きの桜の名所だ。
しかし、足利尊氏は後醍醐天皇と対立し、光厳天皇の弟である光明天皇が即位され、次いで光厳天皇の皇子である崇光天皇に譲位された。
しかし、足利尊氏と直義兄弟の不和から内紛(観応の擾乱)が起こり、尊氏も一時南朝に降伏して、北朝は一時的にだが廃絶された。
しかも、光厳、光明、崇光の3上皇は南朝側が京都から撤退する際に拉致され、河内国東条、さらには吉野賀名生へと連れ去られ、幽閉されていた。尊氏は仕方なく、後伏見上皇妃広義門院の命というまったく異例の形で、光厳天皇の皇子で崇光天皇の同母弟である後光厳天皇を即位させた。
崇光上皇は京へ帰還後、伏見天皇ゆかりの伏見殿に住まい、息子の栄仁親王の登極を願われたが、聞き入れられず、失意のうちに崩御された。
後光厳系と崇光系の皇位継承争い
- 北朝第5代 後円融天皇 北朝でも正嫡争いが起きる
- 第100代(北朝第6代) 後小松天皇 南北朝が合流したときの天皇で一休禅師の父親
- 第101代 称光天皇 対明外交姿勢がもとに戻る
- 第102代 後花園天皇 崇光帝の末裔で伏見宮家から登極
京都では、後光厳天皇の第2皇子である後円融天皇が即位された。この即位に当たっては、後光厳天皇の兄である崇光上皇が自らの皇子である栄仁親王への譲位を強硬に主張されたことはすでに紹介したとおりだが、幕府は天皇の意向を尊重し、後円融天皇の即位となった。
後小松天皇は、後円融天皇の第1皇子だが、日野資教のもとで養育され、やがて室町殿に移され、わずか6歳で即位された。一方、吉野では、長慶天皇の弟で後村上天皇の第2皇子であった後亀山天皇が南朝最後の天皇として即位された。
南朝との和平交渉は足利義満のイニシアティブで進められ、明徳3年(1392年)閏10月、南朝の後亀山天皇は奈良興福寺を経て京都大覚寺に還幸された。
南北朝合一と足利義満の朝廷政策
このときの条件は、①後亀山天皇から後小松天皇に正式に譲位の儀式(三種神器委譲)を行う、②以後の皇位は持明院統・大覚寺統で迭立とする、③諸国国衙領はことごとく大覚寺統の管領とするが、長講堂領は諸国分すべて持明院統の管領とする、ということだった。
しかし、三種の神器は正式な儀式もなく土御門東洞院内裏にいらした後小松天皇に譲られ、ほかの条件も少なくとも結果的には守られることがなかった。
また、年号も北朝が使っていた明徳がそのまま使われ、南朝の年号である元中は廃止となった。
このとき、初めから義満が両統迭立を守るつもりがなかったかは不明だ。交渉の過程を見ていくと、後小松天皇や公家たちの抵抗を押し切って義満が南朝側と話を進めており、そののち、義満と不仲だった4代将軍義持の意向で反故にされたというのが、私は正しいように思う。
このころ、北山文化が絶頂期を迎えた。その象徴の1つが、古くから名園とされていた西園寺家の別荘を買い取って改造した北山第で、義満はここに移り住み、金閣を建て、後小松天皇の行幸を迎えた。
1402年には、明帝国からの使節が到着した。国書の中で義満は「日本国王源道義」と呼ばれ、義満はこの名で明帝に返書を出した。明の冊封体制に組み込まれることや天皇をないがしろにすることへの反発は当然にあり、二条満基は「書様はもってのほかであり、天下の重事である」と日記に記している。
義満はお気に入りの子供である義嗣を天皇の養子にさせ、帝位簒奪を図ったという見方もあるが、将軍を義持から義嗣に交代させる根回しだったとして説明できるもので、可能性の指摘の域を出ない。
義持が将軍で義嗣が天皇というのは考えにくいので、その場合の将軍は誰だったかも含め、説明しなければ完結した人事構想として成り立たない。
義満は突然死去した。朝廷は太上法皇の称号を与えようとしたが、義満の政治姿勢に不満を持っていた将軍義持はこれを辞退し、幕府と朝廷の関係も正常化していった。
天皇は退位後も、上皇として院政を行い、後花園天皇の御代まで生きられた。天皇は一休禅師の父親であるといわれており、晩年になって38歳になっていた禅師とただ1度だけ面会されたと伝えられる。
南北朝合一のときの条件では、後小松天皇のあとは大覚寺統から出すべきだった。だが、天皇の皇子でまだ12歳だった躬仁親王が、1411年に立太子し、翌年に即位した。ただし、先帝が院政を行い、その在世中に天皇の方が先に崩御された。
称光天皇の時代は、4代将軍義持とその子で5代将軍だった義量の時代と合致する。
明との関係では、義満の屈辱外交に対する世論の不満を受けて、義持は永楽帝の使節に入洛を許さず、事実上の国交断絶となった。これで民族としての誇りは守られたが、幕府は有力な財源を失った。
称光天皇の崩御と伏見宮家への皇統移行
称光天皇は、武芸を好み、不満があると周囲の人々を打ち据えたり、矢を射かけたりするなど乱暴な面をお持ちだった。天下の珍木の供出を持ち主に求められたり、琵琶法師の語る平家物語を御所で聞きたいと所望したものの、後小松院から難色を示されると出家すると駄々をこねて困らせ、28歳で子もないまま崩御された。
これで後光厳天皇の系統は絶えてしまった。これを見て、南朝の皇子たちもかすかな期待を抱いたようだが、皇統はあの気の毒な崇光天皇の系統である伏見宮家に移った。崇光上皇の子である栄仁親王は、上皇の死後は所領の相続を許されず、出家させられた。だが、後小松院に秘蔵の笛である「柯亭」を献上するなどの工作が実り、子の後花園天皇が宮家を継がれた。

伏見宮家
しかし、親王は翌年に変死し、弟の貞成親王が伏見宮となり、子の彦仁親王を皇嗣として認めさせることに成功した。称光天皇がいよいよ危篤となったとき、将軍義教は南朝などの策謀を排するために、親王を密かに東山の若王子神社に移し、後小松上皇の猶子とするという条件で、後光厳系と崇光系の宿命の対立の調停に成功したのだ。親王宣下なしに皇位につくという異例の昇進だった。これが後花園天皇で、伏見宮家は天皇の弟である貞成親王が継いで、これが旧11宮家の先祖だ。
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