ダマされる大新聞、ダマされる読者

石田 雅彦

読売新聞がiPS移植手術で大誤報、というニュースがマスメディアに踊っています。読売に追従した共同や日経など、各マスメディアも火消しに躍起、という状況なんだが、いったいどうしてこんなことになったのか、と言えば、まず山中伸弥氏のノーベル医学・生理学賞受賞が背景にある。この世紀の大偉業に乗れ! とばかりに読売が先走ったのではないか。その結果、紙の一面トップで「まんまとダマされた間抜けぶり」を開陳した、というわけです。


こうした報道を眺めると、日本のマスメディアが「生命倫理」を本当に理解できているか疑問です。遺伝子研究や移植医療、再生医療については、古くから「優生学」的な人権問題などとからみ、慎重な取り扱いが求められる分野なんだが、個人の権利に属すのか議論のある出生前診断や米国で大論争になった「アシュリー事件」のように、医薬の進歩や難病治療と「生命倫理」の間にそびえるハードルは簡単には越えられない問題です。

そもそも、山中氏がiPS細胞を研究した動機には、自己再生の人工的幹細胞なので受精卵を使うES細胞研究よりも「生命倫理」ハードルが低い、という側面がある。もちろん実際のiPSを利用した治療が実現され、多くの患者さんが救われることを期待するんだが、その山中氏が「まだ一人の患者さんも救ってはいない」と自らの研究を省みるように、いきなり人体でiPS細胞の臨床応用、というのはあまりに拙速感を抱かせられる話でした。

この大チョンボでiPS研究にミソがつかなければいいな、と思うんだが、マスメディアのスクープ至上主義や売らんかなの姿勢は、医薬や行政、司法などの関係者が時間をかけ、ていねいに積み上げてきた「生命倫理」の階段を壊しかねない。マスメディア社内に倫理規定などはあるんだが、こうした報道に接すると、普段は情緒的な論調でヒューマニズムを説くマスメディアの別の顔がよくわかります。山中氏自身に、難病に苦しむ患者さんはもちろん、ES細胞研究で犠牲になる卵子や実験動物に対する「愛」がある。そうした姿勢への共感が、行政を初めとした多くの賛同者から研究資金を集めることにつながる側面もある。読売はそうした事情を理解してるのかな、と思います。

いずれにせよ、遺伝子工学の進歩で、ヒトクローンやデザイナーチャイルドの可能性が高まり、倫理委員会などの自律的な縛りがなければ簡単に実現してしまう段階にきている。iPS細胞の場合、倫理的ハードルが低くなる代わり、技術的な可能性が高くなっています。だからこそ、山中氏をはじめとした関係者が慎重に研究を進めている。業績や売名を目的に意図して論文を盗作したり肩書きを粉飾したりするのは論外なんだが、「生命倫理」については研究者や研究機関の「モラル」が大きい。それだけに、マスメディアの検証不足や裏付け取材不足は致命的で、高い購読料を払って大新聞にダマされる読者はいい面の皮だ。

何しろ今回の大誤報については、アゴラでもこの三番目のリンク記事で紹介してるんだが、取材元の研究者自体が怪し過ぎる。読売の「言い訳」によれば、動物実験の論文さえなかったらしい。論文の共著者に裏を取れば簡単にダマされることはなかったはずです。さらに、natureやscienceを初めとする商業科学雑誌を無批判に信頼するのも問題なんだが、たとえばnatureにはコラム的な投稿コーナーがあり、鳩山由紀夫氏の論文も査読のない単なるコメントです。natureに載ったからといって、必ずしも専門家の厳密な審査を経てるわけじゃない。

しかし、当該の研究者は東大先端科学技術研究センターにもプロフィール(注:ウェブ魚拓、オリジナルは削除済み)が載っていたくらいで、このへんを見せられるとコロリとダマされる学歴崇拝主義者もいそうだ。大新聞やテレビ局の社員などのマスメディアに入った連中は学歴社会の勝ち組で、同じ種族には甘アマな上に彼らには文系が多い。無意識の理系コンプレックスもあるんでしょう。このへんの事情も誤報が起きた背景に入れてもいい。

また、国家レベルで「生命倫理」に取り組んできた米国の各研究機関における「生命倫理」審査はかなり慎重で、生命倫理について厳格化を求めた2003年のブッシュ元大統領のレポート以後、民主党と共和党の政治的な駆け引きにも利用されています(資料:米国政権交代と生命倫理政策のゆくえ:東京財団)。ハーバードや関連病院の倫理委員会が、iPS細胞を利用した移植医療を簡単に認めるとも思えない。

さらに言えば、1980年代初めごろまで日本の遺伝子研究は世界の先頭に立っていたのにもかかわらず、蛸壺型研究体制の不備や研究予算の少なさ、さらに政治的な判断もあって遅滞し、欧米に追い抜かれてしまった。それを巻き返しす「エース」として、iPS細胞研究に公的予算などの研究支援が集中し、国を挙げてiPSに期待してきた経緯があります。

そんな矢先のノーベル賞受賞というわけで、競合国同士の足の引っ張り合いもあり、東大の京大への嫉妬心もあり、医薬研究機関には科研費でのiPS「エコ贔屓」へのヤッカミもある。また、山中氏の知財戦略は、利益偏重の医薬メーカーに技術を独占させない、というのも大きな目的です。そうした医薬業界内の利権の奪い合いも激しい。読売に同情的に考えれば、今回の大誤報はこうした鞘当てに利用された結果だったのかもしれません。