過去の中央銀行によるイールドカーブ・コントロールの事例

日銀が9月、新たに採用した政策のひとつイールドカーブ・コントロールは、米金融当局が第二次世界大戦中から1950年代初頭にかけて活用したのと同様の政策ではないかとの見方がある。

真珠湾攻撃から2週間以内に財務省とFRBは金利安定を目指すことに合意したとされる。1942年2月の財務省と連銀の会議で財務省が2.5%を金利の上限として国債を調達し、連銀がそれに協力することを約束した。ただし、それが公にされることはなかったようだが、2.5%が国債の利回りの上限として市場参加者も意識することとなった。この政策は預金準備率の操作とFRBによる国債買入によって行われた。(「財務省・連銀によるアコードの検証」富田俊基氏のレポートより引用)。

この低金利政策は第二次世界大戦後のアコードの締結まで続けられた。戦後、国債の利払いコストを抑えさらに利上げによる国債価格の下落を回避しようとした米財務省と、インフレ抑制のために金融引き締めを主張するFRBとの対立が激化した。このため1951年にトルーマン大統領の調停により、財務省とFRBとの間で「アコード」が成立し、国債管理政策と金融政策が分離された。これによって低金利政策は廃止されたのである。

米国の第二次世界大戦中のイールドカーブ・コントロールを今回、日銀は自らの政策において参考にした可能性はある。ただし当時の米国の長期金利抑制政策は戦争遂行のために組み入れられたものであった。

しかし、今回の日銀のイールドカーブ・コントロールは、日銀による大量の国債買入により国債市場の流動性が低下しているなか、日銀の国債買入の調節で国債の利回りが変化しうることを利用して、むしろ国債の利回りを引き上げることが当初の目的となっていた。その点に大きな違いがある。

国債の利回りを低位に維持していたのは米国ばかりでなく、戦中の日本も同様の政策を取っていた。戦後も1977年頃までは国債の利回りは低位に抑えられていた。国債は銀行や証券会社などで構成された引受シ団と大蔵省資金運用部が引き受けていた。市中消化されるのはごく一部で、ほとんどがシ団メンバーの金融機関が保有した。シ団の引き受けた国債の市場売却は事実上自粛され、国債の利率も低く抑えられていた。ただし銀行が保有する国債の大半は、日銀の買いオペで吸い上げられていたのである。

いずれにしてもイールドカーブ・コントロールが過去行われていたのは国債市場がそれほど大きくなく整備されていない頃のことであった。果たして同様の政策が現代の中央銀行に可能なのか。これもひとつの壮大な実験のように私には思われる。

*** 「牛さん熊さんの本日の債券」配信のお知らせ ***

「牛さん熊さんの本日の債券」では毎営業日の朝と引け後に、その日の債券市場の予想と市場の動向を会話形式でわかりやすく解説しています。10年以上も続くコンテンツで、金融市場動向が、さっと読んでわかるとの評判をいただいております。昼にはコラムも1本配信しています。ご登録はこちらからお願いいたします。

ヤフー版(サイトでお読み頂けます)
まぐまぐ版(メルマガでお読み頂けます)
BLOGOS版(メルマガでお読み頂けます)

講演、セミナー、レポート、コラム執筆等の依頼、承ります。
連絡先:adminアットマークfp.st23.arena.ne.jp


編集部より:この記事は、久保田博幸氏のブログ「牛さん熊さんブログ」2016年10月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。