高橋是清は明治から昭和初期にかけて活躍した歴史上の人物であり、だるま蔵相と親しまれたが、日銀にも大きく関わっていた人物として知られる。
進取の気性に富む高橋是清は、森有礼の友人で農商務省次官の前田正名が持ち込んだペルーの銀山開発の話に乗って、農商務省を辞して鉱山経営のためにペルーに赴くものの、騙されて無一文になってしまう。さすがに責任を感じていた前田は高橋に第三代日本銀行総裁の川田小一郎を紹介した。
こうして是清は日銀に入行したが、本人による丁稚奉公から仕上げていただきたいとの希望で、日銀本店新設工事の建設事務主任となった。このときの監督は安田財閥の祖である安田善治郎、そして設計をしたのがのちに東京駅も手掛けた建築家の辰野金吾である。辰野金吾は唐津の洋学校での高橋是清の教え子でもあった。日銀本店工事では高橋是清の力が存分に生かされ、大幅に遅れていた工事はほぼ予定通りに進捗し、この実績が高く評価された。
入行の翌年には全国二番目の支店となった日銀西部支店の初代支店長となり、その後、横浜正金銀行本店支配人となった。横浜正金銀行とは半官半民の特殊銀行で、実質的に日銀の国際金融部門を担当していた。ここで川田日銀総裁は語学に堪能で海外に詳しい高橋是清に国際金融を学ばせた。横浜正金銀行副頭取などを経て、高橋是清は1899年に日銀副総裁に就任した。
日銀の副総裁のときに、高橋是清は日本の境地を救う働きをしている。日露戦争の戦費の調達である。この困難さは十分に承知していながらも、「君をおいてこの任を果たせるものはいない」とまで総理の桂太郎などに言われ、受けざるを得なかった。秘書役として深井英五(のちの第13代日銀総裁)を伴ってロンドンに向かう。高橋是清の人脈による英米金融人の協力もあり、困難といわれた起債を行い、戦費調達を成功させた。この功績により、高橋是清は1905年に貴族院議員に勅選し、1911年には日銀総裁となった。
日銀総裁を1年8か月務めた後は政界に身を投じ、1913年に第1次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。1918年には政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺されたことで、1921年に第20代内閣総理大臣に就任した。しかし首相就任から7か月で辞職する。
高橋是清の力が遺憾なく発揮されるのは、日銀総裁や内閣総理大臣となっていたときよりも、このあとになる。1931年9月に12月の犬養内閣の成立にともなって高橋是清が蔵相に就任し、ここで行った政策がアベノミクスのモデルとも言われた高橋財政である。
編集部より:この記事は、久保田博幸氏のブログ「牛さん熊さんブログ」2017年3月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。