今週は春季最終講義だ。16週4か月の総括をする。「現代メディアテーマ研究」の授業では「自由」について話そうと思う。日本でも国連からの指摘を受け、また、メディアと権力との関係が疑われる読売新聞の報道姿勢によって、「表現の自由」が話題となっている。日中は全く異なる政治制度だが、人間の自由については普遍的な共通の課題を探索することができる。
米メリーランド大学での卒業式で、中国人女子留学生が、言論の自由を欠いた中国の状況をスモッグの息苦しさにたとえるスピーチを行い、中国国内のネットで強い批判を受けた話題については、すでに5月27日から28日にかけ、計3回にわたって言及した(写真はYouTubeより:編集部)。
私のクラスのある女子学生がこのニュースをテーマに研究発表を行った。言論の自由がどこまで許されるのか、を正面からとらえた内容だった。だが、正直なその学生は、「自分でもまだ未消化で、よくわからない」と述べ、「法律には触れていないが、公の場の発言としては道徳的に問題がある」と結論付けた。気持ちの上ではよくわかる。これに対しては、別の学生から、「反対でも相手の発言を受け入れるのが言論の自由なのではないか」との反論も投げかけられた。簡単に白黒は分けられない。議論がなされることに意義がある。
議論にはまず線引きが必要だ。発言内容が妥当であるかどうかと、発言のされた時間や場所がふさわしかったかどうかは切り離して考える。内容と形式は全く異なった次元でとらえ、そのうえで、表現の自由が守るべきは何なのかを検討しなければならない。
もし米メリーランド大の中国人留学生が、同じ内容を気心の知れた仲間内のチャットで書き込んだら、「いいね」の連発だったに違いない。米国人コミュニティの集会だったら、その場限りの、気の利いたスピーチで終わったはずである。私は英語の全文を読んで、まだ人生経験の浅い20代の若者が、率直な気持ちを話しただけだと感じた。せいぜい、その場の受けをねらった功利的な意図が感じられた程度だ。
中国が大気汚染に悩まされていること、米国と比べて制度的に言論の自由が保障されていないこと、は中国を含め世界公認の現実だろう。彼女が言ったことが常軌を逸しているとは思えない。中国にも空気のきれいな場所があるなどと、本筋とかけ離れた議論をしても意味がない。スピーチの内容が中学生レベルの稚拙なものだという批判もあるが、そんなことは当人が反省すればよい。つまり、彼女が話した内容自体には、メディアを動員して議論するほどの意味も価値もない。
では、形式はどうか。大学の卒業式スピーチは、世界のあらゆる言語に翻訳され、全世界に報じられることを前提としなければなければならないのか。その内容は、米大統領演説のような高い公共性が求められるのか。どの「公」がよくて、どの「公」が悪いのか、線引きは意外とあいまいである。この意味では、公私の峻別さえ危うい概念となる。しかも「公」を引き合いに出し、言論を圧殺する手法は、しばしば統治者と御用メディアがよくすることなので、より警戒度を高めなければならない。
もちろん自由は無制限ではない。言論によって国家の安全を脅かし、個人や団体の名誉や信用を傷つければ、しかるべき処罰や処分を受けるのが法治国家だ。ただし、この場合の国家とは特定の政権が口にする「国家」ではなく。国民の総意、利益を契約によって代表する概念だ。ある政権が「安全」を理由に情報を隠ぺい、さらにねつ造し、国家の名において戦争に加担しようとしているとする。そこで、いわゆる政権に不都合な国家機密が暴露され、結果、選挙によって別の政権が誕生する道が開かれていることを、現代の民主主義は想定している。
米メリーランド大学での卒業式スピーチによって、多くの中国人は気分を害し、民族感情が傷つけられたと感じた。米国はどんなことが起きても中国人の留学先ナンバーワンだが、高額なため一般庶民には手が届かない。その不満にはけ口を与えた面もある。だが本人が後に釈明謝罪をしているように、最初からその意図があったとは思えない。
では、次に問いが進む。そもそもこのスピーチは米国の一大学の「公」から、世界の「公」に引きずり出すべきものなのか。だれしも、小さなサークルで冗談を交えて話したことが、突然、ネットに流れたらびっくりするだろう。極めて高度な公共性と権力を持った政治家のオフレコ懇談は、これに該当しない。彼女はまだ社会経験のない女子学生だ。彼女のスピーチは最初、留学生や留学経験者のグループチャットで話題になった。それを、強い民族主義的イデオロギーで読者を確保する官製メディアの『環球時報』がミニ・ブログで報じたことで、一気に狭隘な愛国感情に火が付いた。
この場合、国民感情を傷つけたのは、スピーチをした、まだ思慮の足りない女子学生なのか、世論の反応を熟知し、そこで利益を得ているメディアなのか。答えは簡単なように思える。だれに言論の自由を主張する権利があり、だれがその自由を利用し、逆に自由を奪っているのか。その答えもおのずと導き出せるのではないか。
(続)
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年6月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。