枝野幸男氏が「30年前の宏池会」の継承者とは言えない

篠田 英朗

枝野氏(ツイッターより)が自称する「宏池会」の創始者、池田勇人元首相(Wikipediaより)=編集部

枝野幸男氏を代表とする立憲民主党の誕生を受けて、関連したブログ記事をいくつか書いてみた。すると、池田信夫氏も枝野氏について書いているのを目にした。枝野氏が自分は「30年前だったら自民党宏池会だ」と発言したことを批判する記事だ。これは、池田信夫氏が正しい。

宏池会の生みの親である池田勇人は、外交安全保障政策では完全に前首相の岸信介が作り上げた枠組みを踏襲した。だからこそ所得倍増計画を打ち出して、逆に経済に国民を専心させることができた。池田首相は、J・F・ケネディ政権に寄り添い続けた日米同盟重視者であった。拙著『集団的自衛権の思想史』で論じたが、池田首相の時代までは、集団的自衛権は違憲だという言説はなかった。

池田と共に吉田茂の弟子として知られる佐藤栄作は、実際には自分の派閥を持つ宏池会のライバルであった。佐藤は、1964年に池田の三選阻止を唱えて総裁選に立候補するが、敗北した。佐藤が首相になったのは、池田が病で倒れたからだ。この佐藤栄作政権末期に、沖縄返還が目指されるようになり、集団的自衛権を違憲とする言説が登場するようになった。そして1972年の集団的自衛権を違憲とする初めての内閣法制局文書が作られたのは、佐藤派出身の田中角栄が首相に就任した直後のことであった。

田中角栄は、ニクソン大統領とキッシンジャー大統領補佐官を苛立たせた首相であった。ロッキード事件は、田中に対する報復であったという噂が絶えないのは、そのためだ。沖縄返還後に不安定化した日米同盟を再確立したのが、宏池会出身の大平正芳であった。憲法学者の石川健次・東大法学部教授は、「9条が、同盟政策の否定によって成り立っていることは、明らかです」(『世界』2015年8月号)、と述べるが、初めて日米関係を「同盟」という言葉で公式に描写した首相として有名なのが、大平首相である。大平首相もまた日米同盟重視の立場であった。宏池会から続いて首相になった鈴木善幸も野党から国会で「同盟」の語の使用について責められたが、動じなかった。

枝野氏が言及する「30年前の宏池会」というと、宮沢喜一の時代になる。1990年代に首相になった宮沢は、若い時から対米交渉にも深く関わった米国通だ。PKO法の成立に尽力したことも思い出される。宮沢が、集団的自衛権を違憲とする議論を厳しく批判した人物であったのは、極めて有名である。

「これまである人たちの解釈によると、横須賀沖の公海で日本がどこかから攻撃を受けた。そこで自衛隊と米海軍が一緒に行動をしているときに、米国の軍艦がやられた。それを日本が助けると、それは集団的自衛権の行使になるから憲法違反であるという。かくのごとき解釈は、ほとんど法律家の資格のない人の言うことですね。」(中曽根康弘・宮沢喜一『対論改憲・護憲』[1997年])

集団的自衛権行使の容認を唱えた宮沢のサンフランシスコ講和条約調印50周年(2001年)の際の講演も、有名だ。宮沢が「護憲派」だったのは、現行憲法のままで、集団的自衛権の行使は可能だ、と考えていたからにほかならない。

時折、宮沢が主張していたのは、限定的な集団的自衛権だけだ、と言う人がいる。根本的に間違っていると思う。そもそも日本以外の全ての国が、国際法によって、個別的自衛権の行使も、集団的自衛権の行使も、制約されるのだ。集団的自衛権は違憲だが、個別的自衛権なら(制約されず)合憲だ、などという国際法を逸脱した勝手なことを言う態度こそが、満州事変のような危険な道に陥らせる。

宏池会は、一貫して日米同盟重視の伝統を持っていると言える。宏池会が「護憲派」のイメージがあるのは、日米同盟と護憲主義の両立が、宏池会の伝統だからだ。反米主義に徹する余り、集団的自衛権をまとめて違憲にしてしまうのは、「30年前の宏池会」とは言えない。「9条は同盟を否定している」と主張する憲法学者に従い、安保法制に賛成するのは反立憲主義者だ、と叫ぶことを、「30年前の宏池会」と描写するのは、適切とは言えない。

枝野氏は、立憲民主党を政権担当能力の政党に育てたいのであれば、よく勉強していて気の利く助言者を雇ったほうがいい。「憲法学者へのアンケート結果」だけを信奉しながら、自分は「30年前の宏池会」の立場だ、といったことをつぶやいていたら、政権担当能力を疑われる。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2017年10月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。