「歴代総理と総裁候補達の語学力のランキング」では主として英語の語学力を取り上げたが、歴代総理にはフランス語の達人もけっこういるのだ。
まず、フランス留学組は、西園寺公望、寺内正毅、東久邇宮稔彦だ。
西園寺は、大村益次郎のすすめで1871年、フランスに留学のために出国して翌年にパリに到着。パリ・コミューン騒動の最中だった。ソルボンヌ大学で政治学者のエミール・アコラスなどに学び、初の日本人学士となった。ここでのちのフランス首相クレマンソーやレオン・ガンベタ、文学者ゴーティエと親交を結んだ。帰国は1880年である。
寺内正毅は、維新直後からフランス語を学び留学を希望し、1882年に閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学。翌年には駐在武官に任ぜられ、1886年までフランスに滞在した。
東久邇宮稔彦は、1920年から1926年まで留学し、サン・シール陸軍士官学校、エコール・ポリテクニークで学んだ。画家のモネや元首相のクレマンソー、ジョフル元帥、ペタン元帥と親交を結び自動車を自ら運転し、愛人も作った。この長い滞在の裏には大正天皇との不仲もあるようだが、同時に、山縣有朋や上原勇作から「なるべく永く外国に滞在し、向こうの知名の人と親しくなるように」言明されたからだと本人は述べている。死の床のうわごとでもラマルセイエーズをフランス語で唄ったという。
原敬は、1876年にフランス法を専門とする司法省法学校で勉学し、待遇改善運動で退学になったのちは、中江兆民の仏学塾で学び、郵便報知新聞社でフランス語新聞の翻訳を担当した。のちに外交官に採用され、1885年からはパリの公使館でナンバーツーだった。つまり、まさに、フランス語の専門家だったのである。
留学経験ではないが、福田赳夫と中曽根康弘はいずれも旧制高校でフランス語を第一外国語とする文丙で学んだので、いずれも、英語よりフランス語に堪能だった。福田は大蔵省入省後に短期間だが駐仏大使館勤務も経験している。
若槻礼次郎は、 帝國大學法科大学仏法科を首席で卒業しており、1907年から1年余り政府財政委員としてロンドンおよびパリに駐在していたので、やはりかなりできたはずだ。
このほか、桂太郎は当初はフランス語を学びフランス留学に旅立ったが、普仏戦争でのドイツの勝利をみてドイツ留学に切り替えた。幣原喜重郎、吉田茂、広田弘毅、芦田均といった外交官たちも、ある程度はフランス語を勉強したはずだ。いまでも、国連など国際機関では英仏のふたつがworking languageであるからそれなりの知識が要求される。