実に久々にプレミアムフライデーっぽいことをしてみた。4限の講義が終わった後に、丸の内に向かう途中、錦糸町で降りてパイコーメン。その間もTwitterのTLは安田純平さんに関するコメントが飛び交っており。「自己責任論」とそれに対する批判だ。
お前はコメントしないのかと複数の人に言われた。前提として、安田さんの件、深く親しい関係ではないものの、それでも「キャンパスで見かけたら声を掛け合う関係」というのが数年続き。私にとっては、ジャーナリスト安田純平ではなく、「少林寺憲法部の安田さん」「Kさん(学生プロレスの先輩 リングネーム桜銀造)の友達の安田さん」という関係で、心情的に簡単にはコメントできなかった。
ただ、今回の論争(のようなもの)は「雑」だと言わざるを得ない。ネトウヨ、オンライン排外主義者が吠えている「自己責任論」は論外だが、主にメディア関係者が言う「ジャーナリストの使命論」についても頷きつつも、完全に同意はできないのではないかと。
さらには「国家」が「国民」の「安全」さらには「命」を守るというのは、自己責任論とはまた別の話。人道的な問題もあるし、一方でこれは国益に関することでもある。
自己責任について。これは段階がある。選択肢が存在したかどうか、自分がそのリスクも判断した上で選択したかどうかなどだ。
ジャーナリスト、しかも戦場に赴くジャーナリストという職業を選択したのは、安田さんの意志だろう。
問題は、現地でどのように行動したのか。それが明らかにならなければ、議論ができない。かなりうがった見方だが、もし彼が「人質」としての「参与観察」をしようとしたならば、また議論が違ってくる。これはこれで貴重な「取材」だが。
戦場ジャーナリストに限らず、世界には、いや日本にも、死ぬ可能性がある(0%ではない、いや10%以上ある)危険な仕事が存在するということも認識しておきたい。
前述したとおり、自己責任と国民の安全はまた別だ。この件はあの産経新聞でさえも10月25日付の社説で擁護している。
危険を承知で現地に足を踏み入れたのだから自己責任であるとし、救出の必要性に疑問をはさむのは誤りである。理由の如何(いかん)を問わず、国は自国民の安全や保護に責任を持つ。(出所:産経新聞2018年10月25日付朝刊「主張」より)
これこそ産経新聞的な「愛国」であり、論理が矛盾している思想難民的なネトウヨやオンライン排外主義者とはまた違う、筋が通った論理である。もっとも、私も含めた左派の論客も絶賛したこの社説だが、全体を読むと情報機関の独立など、なかなか産経っぽい主張が載っている。ネットではこの部分が拡散していたが、これも全体を読まなくてはという話である。
というわけで、安田純平さんの話から、全貌が明らかにならなければ、自己責任論も、ジャーナリストの使命論もまだ分からないし、いずれにせよ、これらの論と、なんであれ「国家」にとっての「国民」の「命」の重さはまた別の話なのである。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2018年10月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。