日本維新の会の丸山穂高衆議院議員(大阪19区)が今月、北方領土の国後島ビザなし訪問時に、「北方領土を戦争で取り返すことに賛成か反対か」という問いを発し、戦争を煽る発言だということで批判が沸き上がり、同議員は維新の会から除名処分を受けたというニュースを知った。その後も様々な批判と意見が飛び出しているが、本人は議員を辞める考えはないという。
ところで、オーストリアでは極右政党「自由党」のシュトラーヒェ党首が、イビザ島での暴言ビデオが流れ、クルツ政権下の副首相と自由党党首のポストを失ったばかりだが、「そういえば日本の丸山穂高議員とシュトラーヒェ氏は似ているな」と気が付いた。そこで、丸山氏の不祥事について報じたブログをもう一度読み直したら、両議員は確かに似ている。国民によって選出された国会議員という立場だけではない。両議員は酒で躓いた、ということに気が付いた。
当方は酒を飲まないので、飲まない人間が飲む人間の不祥事についてあれこれ言っても意味がないし、観念的な話となるのが落ちだが、なぜ人は酒を飲みすぎると暴言を吐くのか、当方には非常に関心があるテーマだ。
シュトラーヒェ氏が暴言を吐いた現場のビデオがメディアに流れ、引責で副首相と党首のポストから辞任したが、その時、「格好よく見せたいというティーンエイジャー気取りもあり、ウォッカの影響も手伝って暴言を吐いてしまった」と述べている。すなわち、ウォッカを飲みすぎて普段なら言わないような内容を語ってしまった、「バカであり、無責任だった」と謝罪している。
丸山氏の知人の1人、作家の宇佐美典也氏の記事(5月16日)を読んで、丸山氏はアルコール依存症の可能性のあるのだと知った。それでは、戦争で奪われた北方領土を奪い返すという考えはアルコール飲酒がなした仕業だろうか。聡明な知性の持ち主がなぜ酒を飲みすぎ、時には不祥事や暴言を吐くのか。それとも暴言が先で、酒はその言い訳に過ぎないのだろうか。
神脳神経学者の説明によると、「酒による不祥事、暴言は知性水準にはあまり関係なく、酒を飲むと脳神経の防御メカニズムが麻痺し、検閲メカニズムが停止するため、普段抑えられてきた内容や考えが飛び出しやすくなる」という。社会は共同体だから、人は自分の本姓を知性でコントロールし、検閲し、制御しながら生きていかざるを得ない、という説明は一理ある。その社会の規則を破った丸山氏とシュトラーヒェ氏は当然制裁を受けなければならなかったわけだ。
シュトラーヒェ氏も丸山氏も国会議員を務める聡明な人間だと思うが、「酒が知性を眠らせ、本来の自分の世界が目覚め、暴言を吐いたり、不祥事が起きるのだ。検閲メカニズムをスルーした、その人間の偽りのない姿、考えが出ただけだ」といわれれば、多分そうかもしれない。しかし、それでは“偽りのない自分”を発揮するのを助ける酒を批判できなくなる。
オーストリアはローマ・カトリック教国だ。そのオーストリアでイビザ島事件が起き、暴言を吐いたシュトラーヒェ氏らは政権から追放されたが、バチカン・ニュースはシュトラーヒェ氏の言動を厳しく批判している。「政治家になる以上、そのパーソナリテイが成熟していなければならない」と説教するドイツの司教のコメントが掲載されていた。それではパーソナリテイが成熟している聖職者がなぜ未成年者への性的虐待を犯すのか、なぜ教会はそれを防止せず、隠ぺいしてきたのか。聖職者は通常、アルコール類を飲まないが、性犯罪を犯し、時には失言するとすれば、シュトラーヒェ氏や丸山議員以上に“質が悪い”といわざるを得なくなる。
オーストリアの野党議員ピルツ氏は女性に対するハラスメント問題で一時議員を辞職した。その時、「会合で酒を飲みすぎたからだ」と弁明していた。酒を飲みすぎて女性に性的ハラスメントを犯したというのだから、ある意味で一貫性がある。全て酒がなした業だからだ。例外は酒を飲まなくても性犯罪に走る聖職者だ。だから、フランシスコ法王が声を大にして聖職者の性犯罪対策を叫んだとしても難しいわけだ。酒が原因ならば、酒を飲まなければいいだけだ。聖職者の場合、問題は酒ではないからだ。
シュトラーヒェ氏と丸山氏の問題に戻る。酒を飲みすぎると、聡明な知性も働かなくなり、本音が飛び出したり、暴言が出てくる。ここで少し考えたいことは、丸山議員の発言内容だ。ロシアのクリミア半島の併合を目撃したきた我々は国際世界がパワーによって動かされている現実を見てきた。丸山氏はその国際社会の現実を表現したわけだ。丸山議員の発言内容はフェイク情報や虚言ではない。だから、丸山議員の発言内容を問題視することは間違っている。正しい内容を発言したゆえに、制裁を受けるという状況に陥ってしまうからだ。問題はその発言内容をしらふの状況で誰にも誤解されないように語らなかった点だろう。多数の人々の前で演説する国会議員ならばその場の空気を読む訓練が不可欠だ。
シュトラーヒェ氏の場合、党献金と公共事業の受注優先やメディア操作といった話はかなりきわどい内容だが、忘れてならない点はシュトラーヒェ氏は当時、野党指導者に過ぎず、言いたい放題の発言をして人気のあった政治家だ。本人も言っていたが、自分の傍に美人のロシア人女性が座っていたこともあって、その口は一層滑らかになっただけだ。すなわち、政治権限もない野党指導者がウォッカの助けもあって、日ごろ見聞きしてきた内容をロシア人女性の前で披露しただけだ。それがビデオに撮影されたことは、シュトラーヒェ氏にとって不幸だったが、政治生命を失うほどの蛮行だったか否かは判断が難しい。
明確な点は、オーストリアの政界では過去、社民党政権が党献金と引き換えに公共事業の受注を優先してきたことはあったことだ。また、メディアを買収して情報操作をしている政治家は隣国ハンガリーのオルバン政権を思い出すだけで十分だろう。すなわち、シュトラーヒェ氏は現実の政治の政界で繰り広げられている状況を説明しただけだ。ただし、その現実の政治を描写したことで、多くの若い世代に政治不信を一層駆り立てたことは間違いないだろう。シュトラーヒェ氏が受けるべき批判はその点にある。まだもらってもない党献金話や、権限もない野党指導者の公共事業の受注話は単なる寝言に過ぎない。
丸山議員もシュトラーヒェ党首もその発言内容が問題というより、むしろ現実の政治情勢を語った発言で制裁を受けているわけだ。その発言内容を吟味し、ファクトチェックをすれば、批判する側が守勢に回されるかもしれない。そして批判する側とは脳神経の検閲メカニズムが機能している人々、社会を意味する。検閲をスルーして飛び出す考え、アイデアをできるだけ抑制しようとする側だ。
それでは、酒を飲んでその制御メカニズムを壊し、本来の自分の世界を取り戻すことは問題ではない、という理屈にもなる。そうではない。酒の手助けで飛び出す、偽りのない自分、本音はやはり本当の自分ではないことが多いのだ。“偽りのない自分”というのが曲者だ。酒で飛び出す“偽りのない自分”はまた別の妄想であり、本当の自分はその妄想に押しつぶされているケースが多いのではないか。不幸なことだが、われわれの天性の自分は2重、3重のバリアで取り囲まれているからだ。
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「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年5月24日の記事に一部加筆。