「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(当時。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。
- 第1回目:新型コロナ実名報道を考える:なぜどのように匿名志向が生まれたか
- 第2回目:新型コロナ実名報道を考える:なぜ実名報道が基本になっていくのか
- 第3回目:新型コロナ実名報道を考える:「出る杭は打たれる」空気 メディアは当局との距離をどう取るか
今回は、英米のジャーナリズムを間近に経験された澤氏に、日本のジャーナリズムが目指すべき姿を聞いてみた。
なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。
―実名報道について、報道機関側はその意義を主張するのに対し、一部の国民の間ではこれに反発する見方が広がっています。この「溝」をどうしたらいいのか。解決策をどのように見ていらっしゃいますか。
何に対する解決かにもよるとは思うのですが、ジャーナリストと「世論」との意識の違いが完全になくなるということはなかなか望みづらいと思います。前述したように、どんな仕事でも仕事なりの見方や取り組み方があり、それはすべての人に直感的に受け入れてもらえることばかりではないのではないでしょうか。
メディアスクラムやあまりに無礼な取材の仕方など、当然反省し改善しなければならないことは改めなければなりません。これは大前提だとは思います。かといって「ご本人が希望する取材や報道だけをする」「ご本人が納得することしか書かない」ということを本来の目的とするわけにはいかないのが報道の役割です。ご本人の希望や納得のために行うのは広報や宣伝の役割であり、広報や宣伝ももちろん社会的意義のある仕事ですが、報道とはまた別です。
報道となると、第一の目的としては「社会に大きな関心を持たれ、情報の共有や、社会史への記録が必要と思われること」を報じるしかありません。それが、報じられる当事者の方々からみた要望や希望と常に一致するものとはいえません。これは報道側にとっていわば「責務と、目の前の当事者との板挟み」になることです。非常につらいのですが、ここはそのように整理するほかないとおもいます。
ただ、理屈で「これこれしかじかだから実名が必要なのだ」と述べても説得力はあまりないと思います。これを読んで下さっている方にも、理屈ばかり述べたところであんまり響かないのではないだろうかと思いながら答えています。
いま一番大切なのは「意義あるよい報道」をきちんとしていくことなのではないでしょうか。
「権力監視」についての認識がかけ離れている
英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所の2019年「デジタルニュースレポート」によると、日本の記者が、報道の仕事について「政治指導者を監視し検証することが重要だ」と考える割合は9割を超え比較した世界17か国で最も高いのです。これが読者視聴者となると「報道メディアは力ある人やビジネスを監視、検証している」とみる比率は17%。12か国中最低です。記者と世間の「権力監視」についての認識がかけ離れる結果です。
記者の自己評価の方は「こうすべきだ」であって「こうできていると思っている」ではないので、「記者が思うほど世間は評価していない」と単純に言ってはならない統計だと思いますし、こういう仕事(「汚れた桜 「桜を見る会」疑惑に迫った49日」)に懸命に取り組んでいることを考えればメディアへの誤解もあるとは思いますが、それにしても評価の低さは深刻だし、私自身つらいです。
必要な「戦闘的ジャーナリズム」
これを考えると、今必要なのは「行儀の良さ」よりも「戦闘的ジャーナリズム」なのだと思います。
実名匿名でいえば、地域社会で公的役割を負う人、公的責任がある人や、社会問題に責任を負う者の実名をなぜか控えてしまっているケースがないかどうか…私は非常に気になっています。
役所の不祥事発表などの場合、当局が個人名を隠してしまって取材側ではハッキリとは分からない場合が少なくなく、「分かっているのにことさらに匿名報道した」のか「分からないから匿名にせざるを得ない」のかが読者から区別できないというのが混乱に拍車を掛けています。
英米の場合「当局は名前を明らかにしていない」「匿名を条件に情報提供した」など、匿名にせざるを得ない理由を記事内に書くことで「原則として実名で書く」ことを読者に説明しています。実名情報を出す理由の説明ではなく、です。
批判的に報道された実名情報が不当な攻撃や偏見を呼ばないかという懸念もあり得ますが、情報を悪用して偏見を煽る読者がいたとすればその行為自体が問題として厳しく問われるべきです。でも読者、視聴者の方々は殆どのかたがきちんとしていて、情報をもとに真面目な議論をすると思います。そういう前提でなければそもそもニュースを出すこと自体が無意味ですし、さらには民主主義だって市民の判断力を信頼しているからこそ成立するのではないでしょうか。
報道側にとって大切なのは、公共性ある事項の社会的な背景を踏まえ、予断を持たずに取材を尽くし、言い分もフェアに報じることであって、情報を隠すことではないように思います。
―イギリスのロイタージャーナリズム研究所で勉強され、アメリカでは特派員として仕事をされましたね。英米のジャーナリズムでは、実名報道について、どんな感じだったのでしょう?もし何か印象深いことがあれば、ご教示ください。なぜ、実名報道が受け入れられているのでしょう?
私がイギリスの報道を調べるため現地に留学したのは2006-07年です。
当時大きく報道されたのは、イプスウィッチという東部の街で5人の若い女性が次々に遺体で見つかった事件でした。そしてこの女性たちは全員、売春をして生活をしていたのです。
警察が女性たちの身元を特定すると実名がすぐに報道され、顔写真も大きく掲載され続けました。彼女たちが売春婦であることもです。彼女たちの人となりや経歴も、家族や友人が彼女たちを悼む声も詳細に報じられました。下品だと言われる大衆紙だけでなく、タイムズやガーディアンという高級紙、BBCまでも、日本の事件報道よりもずっと詳細で大きな報道を彼女たちの実名とともに続けたという強い印象が今も残っています。
ただ、日本の報道パターンと異なり、たとえば薬物と売春の関係、社会問題にも絡めた報道も多く、英国社会の「新参者」であった私にも、その問題について多くを知ることができました。
日本の場合、事件報道の「王道」は捜査スジつまり捜査の成り行きに収斂しがちです。もちろん捜査が進んでたとえば容疑者が逮捕されるなどということがあれば英国でも大ニュースになるのは同じですが、捜査以外の社会的背景の記事も面白く大量に出ていて、いろいろ学ぶことができたように思います。
印象的なのは「昔なら、こういう仕事をしている女性が殺されるのは、そうでない仕事の女性が殺されるよりも大問題といえない-というような議論があったかも知れない。今はそれは許されない」という識者の意見を記事で読んだことです。彼女たちが売春婦であったことは事件の重要な部分であり、そこを一般市民に知らせないとかごまかすとか、ウラでだけ話すべきことだという態度を英国のメディアはとりませんでした。
もちろん彼女たちの名前も隠しません。しかし、彼女たちを不当に低く見るようなことはおかしいという意見を紹介したのでした。こうしたイギリスの報道の在り方は今も変わりないようです。
米小学校での射殺事件で、ニューヨーク・タイムズは1面に犠牲者の名前を掲載した
アメリカの場合も同様で、私が在米中に起きた小学校の銃乱射事件のことは特に印象的でした。コネティカット州のサンディフックという小学校に20歳のアダム・ランザという男が侵入し、6歳と7歳の子どもたち20人を含む26人を学校内で射殺しました。アメリカでは乱射事件が繰り返されますが、子どもが学校でこのように多数犠牲になるという意味でこの事件は最悪の乱射事件の一つだと思います。
事件を伝えるニューヨーク・タイムズはこの犠牲者の名前を一面に並べました。それも大きな黒地に白抜きの表です。
同じ社会に暮らす仲間の市民を悼む--そう私は感じました。新聞の読者に勝手に追悼されても意味がないという考え方もあるかも知れません。
でも、社会は民と民のつながりです。社会は英語だとソサエティですが、英語のこの言葉は社交や交友の意味を多分に含みますよね。いろんな人と付き合う、あるいは飲みづきあいすることもまた「ソーシャライズ」ともいいます。だから福沢諭吉は「ソサエティ」に「人間交際」という訳語をつくったんです。
「普通の人が意見を求められ、意見を言う」こと
社会とは人と人のつながりなのに、民と民がつながらず官やエリートに「お任せ」していたら民主主義は空洞化し、世の中の「声」は起こりません。ヨコつながりができるからボランティアやチャリティも生まれます。より安全な社会にするため、この被害者、遺族たちと話し合って法律を変えようという機運も強まるでしょう。それをやるのが「民」だと思います。もっとも、市民の声にもかかわらず米国の銃規制は遅々として進みませんが…。
サンディフック小学校乱射事件で殺された1人、エミリー・パーカーさん(6)の父親、ロビー・パーカーさんは事件直後、すさまじい数のメディアが殺到する中で意見を述べました。その映像は今もユーチューブのCNN公式チャンネルで見られます。Father of school shooting victim ‘blessed to be her dad
これを見て私は非常にショックを受けました。この話し方はいわば公の場で意見を訴えるパブリック・スピーキングのスタイルです。
日本だと、こんな風に話す機会は学校の弁論大会を別にすれば、政治家や官僚、偉い人たち、あるいは市民運動家とか「話し慣れた人たち」のするものだという思い込みはなかったでしょうか。私にはありました。
でも、こうやって普通の人が意見を求められ、意見を言う。それは政治家や官僚だけのことでなく、普通の人こそ真ん前に出てきて堂々と話す。仲間の市民もそれを尊重し勇気をたたえ、自分も議論を始める。そういうことなのかと、衝撃を受けました。
ジャーナリストは偉い人を追っかけてもいますが、一方で「普通の人の小さな声」こそ大切にすべきだと言われます。それなのに、私の中に「普通の人がみんなの前で意見をスピーチすることはあんまりない」という思い込みがあったのに気付かされました。
そういう思い込みがあったから、これを見てショックを受けたんですね。それは私にとって強い反省になりました。(続く)
澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。
***
筆者記事:
編集部より;この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2020年4月8日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。