アゴラに『イチロー氏に教わった「憧れの人にあえて会わない」合理的な選択』(19年12月26日)と題された記事があり、筆者はその中で次のように言われています。
イチロー選手が「僕と会うと(自分のことを)嫌いになる人もいる」というのは、自分の信念を曲げずに振る舞った結果なのではないでしょうか。信念を貫くことで一部のファンは覚めてしまい、逆にその他のファンはますます好きになるという結果になります。直接対面で会うのはそれがより顕著になるのです。
そして上記に続けて筆者は、
私は憧れの人は憧れのままにしておくのも、一つの戦略だと捉えています。歴史上の人物はすでになくなっていて、永遠に会うことができないからこそいつまでも美しいままなのではないでしょうか?同じ現象が、若くしてなくなったり、早期引退をした天才アーティストにも見て取れます。会えないからこそ、いつまでも幻想が永遠に幻想のままなのです。
と述べられています。
本テーマで私見を申し上げますと、此の「美しいものは美しいままに」との主張を全面的に否定するわけではありませんが、私自身は基本「ありのままを理解すべし」との考えです。憧れの人に「直接対面で会う」ことが許される場合は、是非とも会いに行った方が良いでしょう。その時に「残念な人だなぁ、期待外れだ」と思うか「あぁ、やはり憧れた通りの人だった」と思うかは、何れにしても会ってみなければ分からないことです。
憧れるとは、一種の空想の世界で自分もその敬意の対象のようになりたいと強く心引かれる様を言います。例えば私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生は『照心講座』の中で、「偉大なるもの、尊きもの、高きものを仰ぎ、これに感じ、憧憬(あこが)れ、それらに近づこうとすると同時に、自ら省みて恥づる」心が、「敬の心」であると述べておられます。
あるいは私が安岡先生と並んで私淑する、明治・大正・昭和と生き抜いた知の巨人である森信三先生は、『修身教授録』の中で次の通り言われています――一人の生きた人格を尊敬して、自己を磨いていこうとし始めた時、その態度を「敬」と言うのです。それ故敬とか尊敬とかいうのは、優れた人格を対象として、その人に自分の一切をささげる所に、おのずから湧いてくる感情です。
憧れの人に直接対面で会い「自分の一切をささげる」程ではなかったと思うのであれば、次なる敬の対象を探し求める努力を続けて行けば良いでしょう。逆にその人に対する尊敬の念が深まったというのであれば、それはそれで「自分も発奮してもっと頑張ろう」という「憤」の気持ちに、更に繋がって行くことになるでしょう。之がとても重要なのです。
何故なら、敬と恥が相俟って醸成されてくる此の「憤」が、大きくは万物の霊長としての人類の進歩を促し、またその人自身を成長させて行く原動力になるからです。従って、敬と恥を自らの内に覚醒させ、自分自身を良き方に変えて行く為にも、可能であれば実際会って真に敬意の対象か否かを見極めた上で、その全人格を知ろうと大いに努めたら良いと思います。
編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年6月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。