織田と豊臣の真実⑧ お江が数えの12歳で結婚

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お江(崇源院像:京都養源院所蔵/Wikipedia)

浅井三姉妹と言われる私たちの末っ子は、大河ドラマ「江」の主人公になったことで皆様もご存じのお江です。最後は二代将軍秀忠の御台所となり、子供には三代将軍家光や後水尾天皇の中宮となった和子もおります。

ドラマでは嫉妬深い猛女というように描かれますが、実像はあまりよく知られていません。というのは、当時は夫が生きている限りは、夫を通して手紙をやりとりするのが普通だったからです。

私も夫である高次の生前はあまり手紙を書いていませんし、淀君も太閤殿下がなく成る前は同様でした。お江の場合は、秀忠様よりお江の方が先に死んだので、手紙が残っていないのです。

お江はいちばん下ですが、輿入れしたのは一番早かったのです。私たちの母であるお市には、あまた兄弟姉妹がいましたが、同じ土田御前を生母とするのは、信長、信行、信包の三兄弟と、お犬の方の五人だったように聞いています。

お犬の方像(龍安寺所蔵/Wikipedia)

そのお犬の方も母に劣らぬ美人だったといい、はじめ知多半島の大野城(常滑市)の佐治信方と結婚しました。佐治家は水軍を率いて伊勢湾ににらみをきかす有力者で、尾張の支配を固めたい信長さまにとってぜひとも取り込んでおきたい有力者だったので、ここに妹を送り込んだのです。

ここで、お犬の方は與九郎(正成)という男子を得ましたが、夫の信方は、天正二年(1574年)に伊勢長島攻めで討ち死にしてしまいました。その3年後にお犬の方は、與九郎を健在だった祖父の佐治為景に預けて、管領・細川晴元様の嫡男で、細川京兆家の当主である細川昭元様に再婚されました。

昭元様は武勲はありませんでしたが、外交官といった形では信長さまに重宝され、細川家代々が名乗る右京太夫にも任官されてそれなりに重んじられていました。

お犬の方は、本能寺の変の年に亡くなっていましたが、竜安寺にとても美しい肖像画が残り、亡くなったあとすぐに描かれたものだけに、信用のおける戦国美人の肖像として知られていますが、高野山にあるお市の肖像にもたいへんよく似ております。

昭元は細川京兆家はもともと土佐の守護も兼ねていたことから、長宗我部氏が元家臣だったので、一時はこれと協調されたこともあったのが響いて秀吉さまからは、お伽衆として偶されるに留まりました。さらに子の元勝さまは豊臣秀頼さまに仕えたために、結局、分家の和泉守護家が熊本城主として栄えたのに引き替え、本家の子孫は、娘の嫁ぎ先である三春藩秋田氏の家臣として生き延びました。

お江の相手は、再婚の時に佐治家に残してきた與九郎さまでした。誰が言い出したのかは定かでないのですが、叔父の信包さまや私の祖母に当たる土田御前がまとめられた縁談だと思います。祖母たちとしては、若くして亡くなった二人の姉妹の息子と娘を組み合わせてやろうとしたわけです。

もっとも、このとき、お江はまだ数えで12歳でしたので、すぐに夫婦としての契りを結ぶということでなく、しばらくは、事実上の許嫁として佐治家で育てられるということで、なかば養女に出されるようなものでした。

それでは、当時の女性は何歳くらいで男女の契りを結んだのかというと、数えで15歳より若いことは少なかったのです。というのは、長子を産んだ年齢が16歳より下というのはあまりいないからわかるでしょう。

もちろん例外はあって、前田利家夫人のおまつさまは13歳ですが、これは、利家様と従兄弟同士で一緒に住んでおられたという事情もありました。どのようにお二人が結ばれたかは、おまつ様から聞いたことがありますが、ここでは内緒にしておきます。

姉の茶々や私にとっては、寂しいことでしたが、亡き母ゆかりの従兄弟のところへ行くのだから、安心して送り出せるお話でしたし、お江にとっても輿九郎さまはいわばお兄さんのようなものでしたから、明るい伊勢湾の陽光に満ちた大野城での生活はとても幸せだったように聞いております。

ところが、早々にお江は佐治さまと別れて戻ってきました。小牧・長久手の戦いの戦いのとき、家康さまが尾張から三河に戻るときに、船の手配をしたのが秀吉さまの逆鱗に触れ離縁ということになったのです。

お江は茶々が重病なので急ぎ大坂へと使者が言うので、交わす言葉もそこそこに送り出してくれた輿九郎さまのことを思い出して泣きの涙でした。が、輿九郎さまはお城も取り上げられて叔父の信包さまのところで居候ということになったと聞いては、戻るべきところももはやないことを悟らざるを得ませんでした。

ちなみに、輿九郎さまは、のちに、信長さまとお鍋の方の娘で、家康さまの従兄弟にあたる水野忠胤さまの未亡人お振さまと再婚され、子孫は加賀藩士となられたそうです。