織田と豊臣の真実⑦ 鶴松君の誕生と短い一生

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※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。

茶々は秀吉さまにお仕えするようになってまもなく懐妊いたしました。出産は淀に城を建てて、そこで行われました。5月のことでございます。ただし、京都競馬場の近くにある江戸時代の淀城とは別の場所です。宇治川の流れを伏見築城の時に変えたので、地形はまったく違ったのです。

生まれた子供は男の子で、棄(鶴松)と命名されました。そののち、茶々と鶴松は大坂城に引っ越しいたしました。長浜時代の秀勝ののち実子を得られず、養子の於次丸秀勝も失って後継者不在で困惑していた秀吉さまにとっては、夢のような出来事でございました。

豊臣棄丸像(妙心寺蔵/Wikipedia)

まして、鶴松君は茶々を通じて織田家の血を引いているのですから、政治的な正統性も申し分なかったのです。こうして、誰もが文句をいえない後継者が出現したこと、そして、天下統一が近づいたことで、戦国が文字通り終わることを期待し、人々が幸福な安堵を感じていました。

そして、うれしいことに、鶴松さまが生まれた年の12月には、茶々がわたくしたちの父である浅井長政の一七回忌、母であるお市の方の七回忌の追善供養を行うことが許可されました。高野山持明院にある長政とお市の有名な肖像画は、このときに奉納したもので、たいへんよく描けていると評判になったものです。

浅井長政像(高野山持明院蔵/Wikipedia)

思いもかけない形で幸運の女神がわたくしたち三姉妹に微笑んでくれたおかげで、わたくしたちにとっては、曇りのない喜びを感じられた年でございました。

しかし、鶴松さまはもともと蒲柳の体質で心配はしていたのですが、この年にわずか3歳で亡くなってしまいました。あっけないことでございました。

関白殿下のお嘆きはあまりに深く、東福寺に入って髻を切られ、主な大名たちもそれにならいました。茶々の悲しみや、わたくしたちも含めて関係するものたちの落胆もいうまでもありません。

しかも、この年はいくつもの不幸が続きました。関白殿下の弟で右腕と頼んでおられた大和大納言秀長さまも亡くなってしまわれました。聞くところによると、私どもの時代から400年も経ったあとに、堺屋太一さんという作家が小説の主人公にされ、それを読んで、菅義偉さんというかたが、模範とされ、内閣総理大臣、私たちの時代で言えば関白殿下に当たる立場に成られた方だそうです。

豊臣秀長像(奈良県大和郡山市春岳院所蔵/Wikipedia)

それに比べると、秀長さまは権大納言で、内大臣の織田信雄様、大納言の德川家康様の次の第四位の序列のまま亡くなられたわけです。

その前の年のはじめには、徳川家康さまと結婚されていた(妹の)旭姫さまが聚楽第で亡くなられているので、関白殿下は妹と弟を相次いで失われたことになります。そして、秀長さまの協力者でもあった千利休さまが関白殿下ともめ事を起こして切腹させられたのですが、その話はまた、別の機会にいたします。。

お初と京極高次が結婚

一方、話が少し前後いたしますが、茶々が秀吉さまの側室になったのとほぼ同時期に、わたくしは従兄弟の京極高次と結婚することになったのでございます。関白殿下の側室である竜子の兄弟です。高次の母マリアは浅井長政の姉妹ですから、高次がわたくしの従兄弟になります。

京極高次像(滋賀県徳源院所蔵/Wikipedia)

もともと、京極家は私ども浅井氏の主君ですが、実際上は、浅井氏の食客のようになっていました。長政と信長さまが手切れとなったときは足利義昭さまのもとにおられたので、長政とは対立することになり、義昭さまと信長さまが離れられたときは信長さまに付きました。

そして、浅井滅亡後の元亀四年(1573年)には近江支配を円滑にするために少しは役に立つと言うことになったのでしょうか、先祖以来の江北の地ではありませんが、安土に近い奥島で五千石が高次に与えられました。

ところが、本能寺の変で信長さまが明智光秀さまに討たれると、高次は妹の竜子さまが嫁いでいた若狭の武田元明さまと共に光秀さまに与して、秀吉さまの居城である長浜城を攻めたので、戦後は身を潜めなければなりませんでした。

しかし、妹の竜子さまが秀吉さまの側室になったことからか、秀吉さまに仕えることとなりました。近江高島郡大溝一万石の大名になったときはわたくしとの結婚と竜子の兄弟だからだということで、お尻の光のおかげとか言う意味で「蛍大名」などと揶揄されたこともあったとか聞きますが、あまりそんなことを気にする人ではありませんでした。

亡き父の血縁で、生まれ育ちの良い人特有の少しつかみどころがないところはありますが、姉妹である竜子さまに似た美男子ですから、私としても北政所さまからお勧めをされて、断る理由などありませんでした。