織田と豊臣の真実⑨ 朝鮮遠征の内幕と秀頼の誕生

八幡 和郎

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※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。

鶴松さまを亡くされ、もはや子供はもてないと観念されたのか、関白殿下は、姉の「とも」と三好吉房さまの長男である甥の三好秀次さまを養子にして、関白の地位と聚楽第を譲られました。

蔚山籠城図屏風(断片) – 福岡市立博物館所蔵/Wikipedia

それ以来、秀吉さまは太閤殿下と呼ばれることになりました。そして、かねてより準備を進めてきた大陸遠征にいよいよ取り組まれることになったのでございます。

この大陸遠征の動機を、天下統一で新たに分ける領地がなくなったからとか、鶴松さまを失って正常な判断ができなくなったからだなどという人もいらっしゃいますが正しくありません。

天下統一となっても、大名を取りつぶす、検地を行う、新田開発をするなどいくらでも家来たちに恩賞を与える余地などございます。大陸遠征は信長さまも考えられていたことで、太閤殿下も早くから夢見ておられたことでありますから、鶴松さまが亡くなったこととも関係ありません。

この朝鮮への遠征は、最初のうちは、ソウルを電撃的に占領するなど、戦国で鍛えられた日本軍は向かうところ敵なしの勢いで、太閤殿下も6月には自ら渡海する準備をされたほどでございました。

それを徳川家康さまや前田利家さまがもうしばらく慎重にとおさえているうちに、京都から聚楽第で生活されていた大政所さま(秀吉の母なか)が危篤との報せが入り、太閤殿下は急ぎ京都に戻られたのですが、残念ながら死に目にあえませんでした。

天寿を全うされたのではありますが、ゴッドマザーというべき大政所さまの死は、あとで振り返りますと、豊臣家が壊れていくドラマの始まりだったのです。

朝鮮での戦況は快進撃は止まりましたが、この年の1月にソウル郊外で李如松率いる明の大軍を宇喜多秀家、小早川隆景らが率いる日本軍が撃破した碧蹄館の戦いでの歴史的勝利もあって一進一退となっておりました。

太閤殿下は大政所様の供養がすんだら今度こそ渡海するといい続けておられました。ところが、年が明けると、なんと姉の茶々がまたもや名護屋で懐妊していることが分かったのでございます。もしかすると九州の暖かい気候や新鮮な魚介類などが良かったのかも知れません。

喜ばれた殿下は茶々をさっそく大阪へ返されました。そして、8月3日には見事に男子が誕生いたしました。お拾君でございます。殿下はさっそく大阪に戻られ、関白殿下(秀次さま)に対して、お拾君(のちの秀頼さま)に日本の五分の一くらいはやって欲しいとおっしゃいました。

豊臣秀頼像 京都市東山区養源院所蔵品/Wikipedia

天下は大事な姉の子である秀次にやったものだから、返せとはいいにくいものの、関白殿下の方で若君の将来についてどう考えてくれるのかという問いかけでございました。

ところが、関白殿下の反応はにぶいものでした。そもそも、関白殿下はお拾君がお生まれになった以上は、自分から、お拾君を養子にして成人のおりは関白を譲るというくらい仰るべきだったのでございます。

まして、お拾君は織田家の血も引いておられるのですから、そうすべきだと思う人も多いわけです。ところが秀次さまは太閤殿下が、この年の暮れになって、将来、お拾君と関白殿下の姫を娶そうという提案をされても、すぐには承諾されませんでした。

これでは、太閤殿下も安心できませんが、それ以上に、姉の茶々は疑心暗鬼になりました。そうなるのも当然のことかもしれません。なにしろ、もし、このまま、太閤殿下にもしものことがあれば、お拾君は関白殿下にとって邪魔者になりますから、母子ともに命の危険すら感じなければならないことになるからございました。

この年の9月に、わたくしの夫である高次が名護屋に連れて行ったお崎というものがあちらで懐妊し、京都へ戻って聚楽第に近い安久院(大宮寺之内)の京極屋敷で男の子を生みました。結婚して5年以上も子どもができなかったうえに、私がついて行けなかった出征先でのことですから納得しなくてはなるまいとは思いましたが、やはり口惜しいには違いありません。

徳川幕府の公式記録である「徳川実紀」には私がこの子を殺そうとしたとか書いているそうです。本当かどうかなどと私が書いてもしかたありますまい。生まれた子は熊麿、のちの忠高で、お江の娘と結婚することになります。

*お崎は山田孫助の姉というが、大石内蔵助夫人である理玖(豊岡藩京極家の家老石束家出身)の妹登夜の嫁ぎ先に丸亀藩士山田孫助の名がある。子孫であろうか。