中野サンプラザ建設は田中角栄総理なしにはありえなかった
私が公私にわたりご指導していただいた市川みのる元中野区議会議員のHPによると、
当時(昭和40年代初頭)現在の中野サンプラザと中野区役所一帯用地は警察大学校用地だった。そこに国(大蔵省)から払い下げる話しが持ち上がります。同時に大手百貨店の用地買収話が示されます。当然の如く地元商店街から反対運動が起きます。当時の上山輝一区長がこの地に広場と青少年関連の施設を方針として掲げます。上山区長は高橋都議(当時)と同行して田中角栄(当時幹事長)邸を訪問します。僅かな面会時間の中要望を伝えますと田中角栄自民党幹事長は労働省に電話を入れ勤労青少年会館構想を確認します。田中角栄幹事長のGOサインでと労働省が同会館を現地に方針決定。昭和48年全国勤労青少年会館竣工、愛称が中野サンプラザとなります。開館セレモニーに奇しくもサンプラザの仕掛人たる田中角栄氏が内閣総理大臣としてテープカットに臨席。まさに政治が築いた歴史を垣間見る中野サンプラザ誘致のお話です。
との話でしたが、私は都市伝説のように聞いていた。
中野区政の資料を読み漁るも写真も文章も残されていない。
旧労働省マターであり、区政とは関係ない施設であるために、区政の資料には残されていないのであろう。
ちなみに現在は、旧労働省の外郭団体から払い下げを受けた中野区の所有物である。その経緯は「なぜ中野サンプラザを建て替える必要があるか?」を読まれたい。
しかし総理大臣の動向ならば新聞に残されているのではとサンプラザが開業した1973年6月1日の翌日6月2日の新聞を調べた。
午後は三時から全国勤労青少年会館(東京・中野区)の会館式へ。あらかじめ準備してあった紋切型の祝辞には見向きもせず「四十年前、一勤労青年として初めて東京に出てきたころが妙に忘れられない。当時、おぼえた“大仕事をとげてしなまし”などの歌は、いまでも胸底に残っている」と切り出し「勤労を通じてこそ他人への思いやりもできるのだ。勤労青年は自身を持ち、自らのおかれている立場にほのかな誇りと感謝をおぼえるべきだ」などと熱弁。
他紙にも中野サンプラザの開館式に参加とあったが、挨拶内容がここまで詳細に記されているものはなかった。
どうやら、田中角栄氏が幹事長時代に中野サンプラザ建設の指示をされ、総理大臣になったときにテープカットをしたというのは真実味がある。形が三角形であるのも田中角栄氏によるものだとも聞いている。
当時、現サンプラザの土地に大手百貨店が誘致されなかったこと、警察幹部の研修所である警察大学校(高層化することにより用地の一部払い下げ)があったことで、中野のまちは特殊な文化が形成される。
大型店がないために個性ある個店が育ち、警察の街であったことから安全・安心、特に風俗営業においては規律がある街が形成される。
現在においても、個性がある個店の人気があり、万人受けするチェーン店は営業が長続きしない傾向が強い。
中野ブロードウェイなどはサブカルチャーの聖地として独特の文化を形成してきた。
2014年には「米国人一家、おいしい東京を食べ尽くす」という書籍が出されたが、主人公である米国人一家は中野を拠点として、おいしいものを食べる本であり、中野の食文化の豊かさを評価していただいた。
すべては駅前一等地に中野サンプラザができたためとは言い過ぎではあるが、現在の中野の発展において無視できない大きな出来事であった。
そんな中野サンプラザは隣接する中野区役所と併せて2024年に解体し、一体再開発を行い、2028年に新・中野サンプラザが竣工する見通しである。