※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。
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いまの南国市にあった守護所に近い長岡郡岡豊城を本拠とする長宗我部氏の先祖は、島津氏などと同じ秦氏で信濃からやって来たと伝えられる。どこまで本当かは確認できないが、あり得ない話ではない。
江戸時代の大名も源平藤橘などさまざまな名族の末裔を名乗り、そのなかには、でっち上げたものも多いが、地方の武士が名門の流れを組んでいることも本当にあったからこそ、嘘の系図も通用したのであって、確たる証拠がないからどれもこれも嘘という考えは間違いだ。
戦国時代の中ごろに、吾川郡の本山氏や吉良氏、香美郡の山田氏、高岡郡の大平氏らの連合軍に攻められ、遺児となった長宗我部国親は一条房家に庇護を求めた。房家は国親を養育し、のちに岡豊城に復帰させた。
そののち、一条氏は豊後の大友氏と結んで伊予宇和郡(西予市卯之町)の西園寺氏などを攻めたが、長宗我部氏は、東部では安芸氏を滅ぼし、西部でも、かつて世話になった一条氏を凌駕するようになってきた。しかも、一条兼定が暗愚だったために、家来たちに追放され、それを嗣いだ内政は長宗我部氏の居城に引き取られてしまった(1574年)。兼定は岳父の大友宗麟を頼ってキリシタンに改宗し、復帰を狙って兵を挙げたが失敗した。
一方、内政は長宗我部元親の婿となりそれなりに遇されたが、内紛に関与して追放され、その子の政親は関ヶ原の戦いののち畿内に移ったらしいが、残念なことに詳しい消息は不明である。
いずれにせよ、長宗我部氏にとっても貴種である一条氏を身内に抱えることの利点は多きかったので、北条氏が最後まで古河公方を保護したのと同じように大事に扱われていた。
長宗我部元親は、土佐を統一したのち、阿波攻略に乗り出し、伊予や讃岐にも侵入した。元親は織田信長と誼を通じ、明智光秀の重臣で春日局の父である斉藤利光の妹を妻に迎えた。
信長は「元親は、鳥無き島の蝙蝠である(他の大名たちが弱いので成功している)」といったが、伊予で毛利氏と争ってくれているのも好ましかったので勢力拡大を容認し、元親の嫡子に偏諱を与えて信親と名乗らせた。。
ところが、讃岐の十河氏らの三好一族が救けを求めてくると、信長は彼らを選んだ。畿内に侮りがたい勢力を持つ三好勢には、まだ利用価値があるとみたのだ。神戸信孝、丹羽長秀、津田信澄らに四国攻めを命じ兵を大坂に集めたのだが、渡海準備の最中に本能寺の変が起きて遠征は取りやめになった。
ここから、光秀謀反の首謀者を斉藤利光であって、妹の嫁ぎ先を助けることが隠された目的という人もいる。それだけではないだろうし、主因と考えるには迫力不足だが、動機のひとつだろうとはいえる。
*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より
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