大忙しだった台湾日本統治期の警察官のちょっと良い話

2021年02月07日 06:00

産経新聞が昨年4月から「台湾日本人物語 統治時代の真実」を連載している。今月3日の23回目は前回に続いて瀧野平四郎(1884~1950)という警官の話だ。前回は「『いのちの水』引いた警官」、今回は「夫婦で守った『山の駐在所』」という表題が付いている。

1908年に24歳で警視庁から台湾の巡査募集試験に合格した瀧野が、警部補として中部の嘉義や彰化の街から山深く分け入った「崁頭厝(かんとうせき)」(現在の雲林県古坑郷)の駐在になったのは10年経った34歳の時だった。彼はその地で酷く不衛生な水事情を知る。

そこで彼は、数キロ離れた大湖口渓に竪井戸を設置して伏流水から導水することを計画、嘉義庁と交渉して許可と予算を得る。3年の紆余曲折を経て水道は完成、400戸1,000人の村人は大いに感謝し、彼を称える「功労碑」を立てた。烏山頭ダムの八田與一像の話に似る。

瀧野と同じある群馬県人が6年前、この話を知って現地を訪ねると、果たして5基の竪井戸が今も健在で、周辺370hrを灌漑していた。偶さか国立屏東科技大でも、「崁頭厝圳」と名付けられたこの水道の歴史的価値を調査しており、この方式では台湾最古のものと判明する。

翌年に同人が現地を再訪すると、周辺が整備されて記念公園に生まれ変わっているどころか、雲林農田水利会会長名による「飲水思源 憶崁頭厝圳」と記した新たな記念碑が建立され、瀧野の功績が刻み込まれていた。「井戸を掘った人への恩を忘れない」のは、今や台湾人になった体だ。

「夫婦で守った『山の駐在所』」では、台湾の「警察官業務が治安維持に止まらず、多岐にわたって」いて、「僻地に赴任した者ほど、それが顕著」だったとある。瀧野は40人を率いた「コレラ防疫」、「鉄橋敷設」や「悪路の大改修工事」の監督から原住民子弟の「教師役」までこなした。

実は筆者の大叔父(祖母の弟)も、昭和の初めに高雄の山奥の警察官だった。筆者が台湾赴任する前にそれを知ったことも、台湾史を勉強する契機になった。帰国後、大叔父の子(又従兄)から借用したアルバムの写真がこの二枚だ。

一枚は屏東の蕃屋でパイワン族の男女と知人の子供とで撮ったもの、もう一枚は駐在所前でのもので看板に「高雄州旗山郡頭前山官吏駐在所」とある。脚絆に草鞋履き、歩兵銃を手にしている。参考に1930年に「霧社事件」(日治期最大の原住民蜂起)が起きたマヘボ駐在所の写真を並べる。

祖母は1935年頃、弟(大叔父)の嫁を内地から同道して高雄に行き、「輿で山に登った」そうだ。が、それが駐在所のある頭前山だったか、それとも高雄神社のある寿山だったか、今は知る術がない。寿山は1923年に皇太子時代の上皇様がここを訪れたことに因み、高雄山から改名された。

県市が合併した大高雄市は北東に深く切れ込み、その端は玉山(新高山)に及ぶ。頭前山を地図で探すと、南北は海岸線と玉山の中間、東西は台南と台東の中間に位置する。つまり、溢勇線(原住民居住地(蕃界)との境界線)に接する辺りなので、祖母が登ったのは寿山か。

連載には、台湾の警察が民政局内務部警保課の所管で、警部70人、巡査700人でスタートし、昭和10年には、州の下に市と郡、庁(都道府県に当たる)の下に支庁が置かれ、機関66、派出所1,010、駐在所52、配置定員約11,300人だったとある。

原住民の理蕃(鎮撫)と土匪の招降は、台南玉井(マンゴーの名産地)で西来庵事件が起きた1915年辺りまで総督府喫緊の課題だった。「正伝 後藤新平」(藤原書店)には、三代目の乃木総督が、軍隊と憲兵と警察が並立してこれに対処する三段警備制を考案したとある。

即ち、山間僻地や土匪の入り組んだ地域は軍と憲兵が、平地や市街地は警察が、中間地域は憲兵と警察が分担するというものだが、失敗した。高姿勢な軍と民政部の軋轢や、普段は市街で良民を装う土匪に警察が手出しできない、などが原因とされる。

下関条約の席上、李鴻章は「台湾を領有してもよろしいが、阿片と土匪にはきっと手を焼くますぞ」と伊藤博文にいった。横行する不逞浮浪の徒が党を組んで、暴行を働き、良民を傷害し、金品を脅し取る、それで台湾は「三年小叛、五年大叛」と称された。

後藤は土匪を、「水滸伝の活劇と申して差し支えない」とか「上州の長脇差(侠客)の類」と評し、総じて「衣食に窮し」ているが、「土匪税」を取る「土地の人民に名望を有」する者や、「浮浪の徒の集合」している者などがあるという。土匪税とは「見ケ〆料」のこと。

児玉源太郎総督の下、1898年に民生長官に就いた後藤新平が8年間に挙げた業績などは別の拙稿を参照願うとして、彼が乃木の三段警備制を廃し、警察官と司獄官練習所からなる新たな警察制度を敷いて、それを台湾統治の中枢機関としたことも、その治績の原動力の一つとなった。

「正伝」は次のように書く。

台湾の警察官たるや、単なる警察事務の他に、阿片取締りあり、保甲監督あり、懲罰即決処分あり、清国人上陸取締りあり、蕃界交通取締りあり、食塩、樟脳専売に関する事務あり、何れも特殊の訓練を必要とした。

新規に募集した巡査はこの練習所でまず二十週間の訓練を受け、訓練には前述に関するもの以外にも、軍隊同様の兵器の取り扱いや精神鍛錬があった。その後、巡査として一定期間勤務した後に再び一年間練習所に入り、警部補となるともある。瀧野もこうした経過を経たのだろう。

こうした多忙で危険の伴う台湾の警察官の棒給には特別な配慮がなされ、本俸は内地と同じながら月当たり12円から16円の手当が付いて、平均年棒は362円と内地のおよそ二倍ほどだったという。

昨今は自衛官のなり手が少ないと聞く。共産中国の膨張主義の下、自衛官の任務とそれを全うするための日々の訓練は厳しさを増していよう。加えて災害復旧やコロナ対応までこなしている。国の守り手に相応のものを以て報いることが必要なのは、往時の台湾警察官に限るまい。

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