「性別記載廃止」問題、別の解決策を考えてみた

2月の投稿で、明石市の提出書類における性別記載欄廃止を取り上げ、LGBTQの当事者に寄り添う英断だと歓迎する一方で、廃止が女性の置かれた現状や差別の実態を見え難くするという懸念を述べた。この悩ましい葛藤を解消とまではいかずとも、緩和する術はないか、今回は「出羽守」よろしく、海外の状況を探ってみた。

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まず目を引くのが、英語版のフェイスブックの取り組みだ。2014年、フェイスブックはLGBTQの権利擁護団体と話し合いを重ね、それまでの自分の性別(sex)を男性と女性の二者択一をするやり方から、58のジェンダー類型の中から自分に最も適合するジェンダー(gender)を選択する方式に変更した(SLATEより)。ここでいう性別とは、出生時に決定される性のことで、一般的には男女のうちのいずれかが割り当てられる。

ところが、出生時に割り当てられた性別を受け入れることのできない人がいる。身体の性別と性自認が一致しない、性自認自体が欠如、あるいは拒絶するなど、人の性自認は単純ではない。自分の性認識をより的確に表現するカテゴリーが求められたのである。

さらに、医科学は解剖学的な性別にも揺らぎがあることを解明してきた。人の性別は、ごく大まかにいうと、染色体、外性器、ホルモンの3つのレベルの組み合わせで決定されるが、胎児期に何らかの理由で齟齬が生じ、3レベルの性別が一致しないという人がいる。身体の性別が男女に明瞭に区別できない状態は、医学の分野では性分化疾患と称されている(日本内分泌学会ホームページより)。

この性別分化は治療の対象になると「疾患」と呼ばれるが、実は性別の分化に何らかの齟齬をきたしている状態は決して珍しいことではないらしい。スタンフォード医学のブログ「Scope」が2015年2月24日に掲載した記事は、そうした2事例を紹介している。一つは3人目を妊娠した46歳の女性が羊水穿刺の追跡検査をしたところ、採取した細胞の半数が男性染色体を保有していた。二つ目は70歳になる3人の子どものいる男性で、ヘルニアの治療中に子宮があることがわかった。記事によると、胎児期に3つのレベルの性別が異なった形態で発達する人が、微細な齟齬も含めると、100人に1人の割合でいるという。

意識のレベルだけでなく、身体のレベルでも性別は様ざまで、従来のように男女二分論でとらえられない。こうした性の多様性を認めるために、生別(sex)ではなく、ジェンダーが使われる。フェイスブックのジェンダー類型は、性別違和の人びとの声を受けて、さらに増え、現在71種類になった(Facebookより)。

71もの選択肢の中から選ぶのは、日常生活ではあまりに煩雑であるし、ましてや簡便さが求められる公文書では非現実的だ。その点で、参考になりそうなのが、近年複数の国で採用されている、男女とは異なる性別の存在を公式に認め、性別の選択肢を3つにする方法である。男性のM (male)、女性のF (female)に対して、この3つ目の性別は「X」と表記されることが多い。男女以外の性別を自認する人は、この「X」を選ぶことになる。たとえば、2020年3月現在、アルゼンチン、インド、オーストラリア、オランダ、カナダ、デンマーク、ドイツ、ニュージーランド、ネパール、パキスタン、マルタがパスポートの性別の選択肢に「X」を設けている(Employers Network for Equality & Inclusion参照)。

謎めいたイメージがある「X」という表記には賛否があるかもしれない。また、多様な性自認を表明する人びとを一緒くたに扱うことに不快感を感じる向きもいるだろう。だが、それはともかくも、性別違和の人は、少なくと性別二分の束縛から解放され、他方従来の性別区分は残るので、女性を一つの集団にして、統計を取り、差別や不平等の実態を分析することもできる。ベストではないかもしれないが、女性問題とも折り合えるまずまずの解決策のようにみえる。

さて、この方法、日本に導入できるだろうか。正直なところ、可能性はかなり低いように思う。というのも、この方法の実現には、ジェンダー多様性を認め、2つの性別区分では不十分だする社会的合意が、少なくとも一定程度は必要だからだ。加えて、法制度を構築する政治にもあまり期待できない。LGBTQに理解を持つ政治家は自民党にも増えているようだが、何しろ党内には時代遅れの家族観や古めかしい結婚観を信奉する先生方もいるので、たとえこの問題が政治的議論の俎上に上がったとしても、激しい論争は避けられないはずだ。論争はLGBTQの当事者を巻き込まずにはおかないだろう。

その点で、明石市の性別記載自体を廃止するという決定は、賛成派と反対派の衝突を回避し、またそうした衝突によってあらぬ差別や偏見に晒され兼ねない当事者を守るものでもあったかもしれない。だが、そうだとしても、一足飛びに「記載の廃止」に至ったことには、熟議欠如による不全感が残る。