龍馬の幕末日記61:船中八策は龍馬が書いたものではない

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

長岡謙吉 Wikipediaより

「船中八策」というのは、私が書いた文章ではないし、私がつけた名前でもない。どうも明治になってからいい出されたようだ。そもそも最初から現在伝わるような形だったのかという人すらいるが、だいたいよく似たものはあった。

土佐が現実に担いで幕府や各藩を説得できる案がどんなものであるかは、長崎にいるときも後藤らと議論はしていたが、時間の余裕ができた船旅の間に、少し考えをまとめようということになった。

そのときに、ちょうどいたのが海援隊員になっていた長岡謙吉である。高知城下は浦戸町の医者の子で、河田小龍のもとで蘭学の手ほどきを受けた。江戸や大坂で医学、文学、天文学を学び、長崎ではシーボルトにもついて学んでいた。

だが、キリスト教に興味を持ったと疑われて帰国させられ長岡郡鹿児村に蟄居していたこともあったが、脱走して海援隊に参加した。

たいへん高い文才と実務能力があり、いわゆる「船中八策」も私の考えをふまえてであるが、長岡が起草したものだ。

船縁で潮風に吹かれながら長岡に口述させたというのはビジュアル的に面白いが、緻密な文書がそんな思いつきでできるはずがない。「船中八策」がいまでも名文としてよく引用されるのは、長岡の文才のおかげだ。

ちなみに、長岡は私が暗殺されたあと海援隊の二代目隊長に選ばれたが、経営の才はなかったのか長続きせず、維新後は三河県知事、大蔵省、工部省などに勤務したが、明治五年には死んでしまった。

「船中八策」の内容はよく知られているとおりだが、

  1. 政権を朝廷に返す、
  2. 上下の議会を置き、すべて公論に基づいて政治を行う、
  3. 公卿・大名のほか世のすぐれた人材の中から顧問を選ぶ、
  4. 新しく国家の基本になる法を定める、
  5. 外国と新たに平等な条約を結び直す、
  6. 海軍の力を強める、
  7. 親兵を設けて都を守る、
  8. 金銀の比率や物の値段を外国と同じにするよう努める

というものだ。

そして、「この作を実行すれば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立することも可能になるものでり、願わくは、公明正大の道理に基づき、一大英断を以て天下と更始一新せん」と結んだ。

つまり、単に政権を形式的に朝廷に返すというだけでなく、上下両院を開くことにより大名の居場所を確保するとともに天下の有為の士を登用できるというところや、親兵を組織して新政府を単なる大名の連合体にしないこと、海軍の充実と通貨政策がかなめとなるべきことを明示し、さらには、将来の憲法制定にまで踏み込んだのだから、なかなか壺を得た優れものだった。

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