外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫
前回も触れたように、日中関係は、1972年の田中角栄首相の訪中で国交が正常化して以来約20年間、「蜜月」と言ってもよいほどの友好関係が続きましたが、1989年6月に突発した「天安門広場事件」で180度変化し、以後、今日見るような厳しく難しい状況が続いています。
同事件ではっきりしたように、中国は、それまでの開明的な胡耀邦時代の民主化路線を一転し、共産党一党独裁による強固な政治体制に移行しました。ここで、念のために、もう一度、過去半世紀ほどの歴史を駆け足でおさらいしておきましょう。
不幸な過去に終止符
1949年の建国以来国際社会で広く承認されることなく孤立してきた中国(中華人民共和国)は、1971年のニクソン米大統領の突然の訪中による米中国交正常化と同年末の国連加盟承認により、台湾(中華民国)に代わって、国際社会の一員として迎え入れられました。米国が劇的な対中政策転換(いわゆるニクソン・ショック)に踏み切った背景には、西側民主主義諸国とのオープンな交流によって、中国社会も自ずから民主化の方向に進み、いずれ国際社会の責任ある一員として成長して行くだろうという期待がありました。
米国に続いて日本が、台湾との国交を断絶してまで、対中国交正常化に踏み切ったのも、そういう期待があったからです。勿論、国交正常化により、19世紀末以来の長く不幸な日中関係に終止符を打つという狙いもありました。
国交正常化から6年後、日中平和友好条約が締結(1978年)されました。同条約第3条には、両国は「アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても、覇権を求めるべきでなく」と明記されています。
日中経済関係の拡大
この条約締結を契機に、日本は、対中経済協力を本格化させました。これには、戦前の中国侵略により与えた損害に対する謝罪と賠償の意味が込められていましたが、敢えて「賠償」と言わずに「経済協力」(ODA)という形式が採られました。そして、日本からの経済協力(円借款など)の拡大とともに、日中の貿易・投資関係も着実に進展しました。
前回触れた山崎豊子の「大地の子」でも詳しく書かれていますが、日本は上海の宝山製鉄所の建設工事など、中国の重要産業の育成や様々なインフラ整備に熱心に取り組みました。
それに並行して日中の人的、文化的交流は、堰を切ったようにあらゆる分野で進み、友好関係は確実に根付いたように見えました。個人的には、当時私も訪中のたびに温かく迎えられ、また東京でも中国人との交流が深まったことは前々回と前回で詳しく述べた通りです。
「中国を孤立させるな」
天安門事件で西側諸国が一斉に対中制裁措置を実施したときも、日本は対中関係の特別な重要性に鑑み、これら諸国とは一線を画し、対中経済協力を続行しました。事件直後のG7サミットでは「中国を孤立させるべきではない」と主張して、この趣旨をサミット宣言に盛り込ませたことは周知の事実です。
さらに、事件の3年後には、平成天皇ご夫妻の訪中問題を巡って国内に色々な意見がありましたが、日本政府は前向きに考えて、これを実現させました。当時中国外務大臣だった錢基琛(前回登場)も、退任後の回想録で、天皇訪中が中国の国際的立場の改善に大いに役立ったと謝意を表明しています。
あの時日本はもっと中国を叩いておくべきだった、円借款の継続や天皇訪中は判断ミスだったという意見が現在でも時々聞かれますが、それは一種の「後知恵」であって、当時は政府も大部分の国民も納得していたはず。当時の外交当局者の判断は決して間違ってはいなかったと思います。もしあの時日本が西側諸国と一緒になって対中制裁に加わっていたらどうなっていたかは想像の限りではありませんが、決してプラスにはならなかったと思います。
対中経済進出の功罪
このことを考える上で、忘れてならないことは、天安門事件のあった1989年という時点で日本がどういう状況にあったかということです。この年1月に、昭和天皇が崩御し、年号が平成に代わりました(ちなみに、私と同年生まれの美空ひばりは同年6月に死去)。内閣は竹下内閣から宇野、海部内閣へと短期間のうちに代わり、政情は甚だ不安定でした。同時に、それまで続いていたバブル経済が一気に弾け、株価が暴落し、日本の長い経済不況時代が始まろうとしていました。
国内の経済不況対策として、日本の多くの企業は先を争って、人件費も地価も格段に安い中国に生産拠点を移し始めました。生産拠点を海外に移すということは、日本国内の産業空洞化を促進すると同時に、産業技術の流出という現象を伴います。中国側も、日本企業の投資を受け入れる条件として当然技術移転を要求するからです。例えば、前記の上海の宝山製鉄所建設プロジェクトでも、多数の日本人技術者が現地で中国人を指導したり、日本国内の工場に大勢の中国人技術者を受け入れ訓練するなど、大規模な技術移転が行われました。
その結果中国の産業技術水準がハイスピードで向上したのは当然の成り行きであって、それを今になって日本側がデザイン盗用だ、知的所有権の侵害(海賊行為)だと指弾しても仕方がないことだと思います。こういう結果になることは国際経済活動の歴史に照らしても十分予測できたことで、今になって後悔しても手遅れです。
こうして着実に技術力を蓄えた中国は、その後共産党の強力な指導の下で快進撃を続け、今や「世界の工場」と言われるようになり、国内総生産(GDP)では2010年に日本を抜き、世界第2の経済大国となりました。向こう10年以内に米国を追い越して世界一の経済大国になるとの予測もあります。
反日感情と「政冷経熱」
他方、日中間の経済関係が緊密化する半面で、政治・外交関係では様々な不協和音が目立つようになりました。とくに、天安門事件以後登場した江沢民政権時代は、日本の首相による靖国神社参拝や「南京大虐殺」などの歴史認識問題を巡って、しばしば中国国内で反日感情が盛り上がり、日本の進出企業への嫌がらせや暴行事件が頻発しました。経済発展に伴い中国人が自信をつけ、ナショナリズムに目覚めたためとも、中国共産党が国民の不平不満をそらすために反日感情を煽ったとも、様々な解釈が可能ですが、日本側ではこうした状況下でも、政経分離ということで、対中経済進出を大きく後退させることはありませんでした。「政冷経熱」と言われるこの状況は、現在でも続いています。
経済力がついた中国が、政治、外交、軍事分野でも強気になり、対外進出を積極化していることは明らかです。南沙、西沙諸島を含む南シナ海や、尖閣諸島周辺の東シナ海への勢力拡大、海軍による拠点造り等は近年ますます激しさを増しています。また、「一帯一路」の旗印の下、陸上でも、経済力にものを言わせて着々と影響力を世界的に拡大しています。
とくに新型コロナウイルスの感染拡大で、各国が対策に忙殺されている間、いち早く国内の感染拡大阻止に成功した(と見られる)中国が、いわば火事場泥棒的に、これらの海域や地域への進出を強めていることは、隣国日本として到底無関心ではいられません。
中国の人権抑圧、台湾問題
周知のように、中国は、香港の民主化勢力弾圧に続いて、新疆ウイグル自治区の少数民族に対する人権抑圧を強めており、国際的な非難を浴びています。このため欧米諸国では対中制裁を強化すべきだという声が高まっています。また、例えばオーストラリアでも、近年の同国における中国人(移民、居住者など)の急増に伴い、様々な問題が頻発しており、対中警戒心や反発が著しく高まっています。(この点については、オーストラリア人作家クライブ・ハミルトンの”Silent Invasion”(日本語の翻訳では「目に見えぬ侵略」(飛鳥新社)が詳しく分析しており、参考になります)
もう一つ厄介な問題は、言うまでもなく、台湾問題です。中国が台湾は中国の一部であり、台湾の独立は絶対に認めないと言っている限り、中台の摩擦、対立は不可避で、これに米国や日本などがどう絡むかは極めて難しい問題です。もし台湾海峡での衝突が軍事的な衝突に発展すれば、日本も到底無傷ではいられないはずです。
今般、菅義偉首相とバイデン米大統領による初の日米首脳会談(4月16日)でも、台湾問題は最も重要な議題の1つで、両首脳は共同声明で、台湾海峡の平和と安定の重要性をはっきり強調しましたが、これに対して早速中国側は、「内政干渉」だとして強く反発しています。
こうした状況の中で、日本は、米国との同盟関係に加えて、インドや豪州等との連携を維持しながら、具体的な事案で中国とどう付き合っていくか。実に難しい問題で、日本人の覚悟と叡智が問われることは明らかです。この問題については本欄で今後さらに検討していきたいと思います。
(2021年4月26日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)
(その2はこちら)
編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)2021年4月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。