蒙古史を知らずに中国を理解できない④豊臣秀吉とヌルハチ

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「日中韓三国興亡史」(さくら舎)で論じたモンゴルの重要性について、エッセンスを5回連続で説くシリーズの第四回目(第一回はこちら。第二回はこちら。第三回はこちら)。

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15世紀の終わりにモンゴルではダヤン・ハンが出て民族をひとつにまとめた。その後は、その孫だが傍系のアルタン・ハンが出た。アルタンは大ハーンにはなれなかったが、大ハーンを出していたチャハル族を圧迫して満洲の西の興安嶺に移住させ、次席ハーンとしてチベットやカザフスタンまで勢力を伸ばした。

北京を包囲したこともあるが、やがて、明と妥協ができて、順義王という称号を得るとともに、毎年、多額の金銭などを払わせ、貿易もするかわりに略奪はしないことになった。

これをもって、中国はモンゴル族が帰順したと勝手に云っているが、実質的にはアルタンの全面勝利だった。

しかしアルタンの死後(1582年)、その遺族の勢力は衰え、明に対してもチャハル部の大ハーンに対しても立場は弱くなった。

こうした状況の下で、豊臣秀吉が明に対して貿易を求めたのだが、明はこれを拒否した。このときに、秀吉が当初、求めたのは、東シナ海の交易の主導権を握り、朝鮮半島や東シナ海沿岸などに拠点を持つようなイメージだったと見られる。

ところが、明がこれを拒否したので、明を征服すると言い出した。古代から中国を征服した民族は多いのだから、まったく、突拍子もない話ではないが、そのように仕向けた者がいるのだろう。

そして、朝鮮や琉球、台湾などに協力を要請したが、琉球は資金の協力だけ承知する一方、明に密告し、朝鮮は要求を蹴った。この結果、秀吉は半島に遠征軍を送り、首都漢城を落とし、平壌や満洲のオランカイまで進んだ。

これに対し、明軍が大挙、南下し日本軍は漢城に後退したが、碧蹄館の戦いでは日本軍が明軍を撃破する大勝利を得た。

しかし、双方とも疲弊が激しく、和平の機運が持ち上がった。このとき、明が秀吉を日本国王にしようとしたので、秀吉は怒って再出兵したといわれるが、実情は少し違う。

交渉の落としどころは、明が日本との貿易に応じ、朝鮮半島の一部を割譲させて領土とし、朝鮮王国に影響を確保できる体制をつくることだった。

秀吉にとっては、アルタンが順義王の肩書きをもらって有利な貿易をしたような形で良かったのである。一方、朝鮮にいかなる形で領地を確保するのかは、全羅、忠清、江原、慶尚の四道を割譲というのが言い値だが、沿岸部にある程度の領地を確保し、半島の他の部分に実質支配権を及ぼすのでもよかったのだろう。

のちに、琉球を島津が支配下においたときに、琉球と明は貿易をしてその利益の一部を島津が得る、奄美を島津に割譲する、首里にお目付を置くということにしたわけだが、ひとつのヒントだし、交渉の仕方、いかんでは明が拒否したとは限らない。

ところが、明がそういう妥協を嫌がったので慶長の役が起きた。日本軍の優位のうちに進み、日本軍は、性急に漢城陥落を狙わずに、地盤を固めたうえで、1599年に総攻撃を予定していたところ秀吉が急逝したので、いったん撤兵することにしたが、それをみた明軍や朝鮮軍が息を吹き返したので、撤退は順調でなかったということである。

慶長の役が日本苦戦だったというのは誤解であって、明も秀吉が死んだので絶体絶命からすくわれたということだ。

ところが、秀吉に対抗するために明軍の遼寧省方面の部隊が南下し隙に、女真族のヌルハチが台頭して、明は追い込まれていくし、モンゴルにはリンダンという英雄が出て、大暴れしたのである。

(続く)