中国とどう付き合って行くべきか④ :日中関係1500年の歴史の教訓(金子 熊夫)

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外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫

今年は聖徳太子が世を去ってから1400年という大きな節目に当たります。(ちなみに、近年聖徳太子という人物が果たして実在したかどうか、歴史学者の間で疑問視する向きがあるようですが、ここでは実在したことにして話を進めます)

昔学校で習ったように、聖徳太子は、十七条憲法を制定(604年)したり、冠位十二階を制定したりして、日本という国の基礎を築きましたが、外交面では遣隋使を派遣(607年)して中国と正式の交流を始めました。その時に初代遣隋使の小野妹子に持たせた隋の煬帝宛ての国書に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」と書かれており、この文言が煬帝を激怒させたと伝えられています。

聖徳太子 出典:Wikipedia

聖徳太子が示したプライド

どの程度激怒したかはっきりしませんが、中国から見れば、アジアの端っこの島国から当時すでに世界有数の大国の元首に宛てた公文書としてはかなり高姿勢であったことは確かで、カチンと来たのも肯けます。

しかし、太子としては、日本は、その辺の中国の属国(朝貢国家)と違って、しっかりした独立国であるというプライドを示し、相手から見くびられることのないよう、対等に交際したいという姿勢を表したものでしょう。その意気込みと気迫は感動的です。そして、これこそが昔も今も日本の対中外交の基本姿勢であると思います。

その後隋は短命で滅び、618年に唐に変わったので、遣唐使が派遣されるようになり、中国から様々な文物が日本に持ち込まれ、文化的に大きな影響を受けました。ところが、玄宗皇帝の時代に、皇帝自身が絶世の美女楊貴妃にうつつを抜かしている間に、内乱が頻発し、国は荒廃してしまって、もはや中国から学ぶべきものは無いということで、平安時代に菅原道真の進言で遣唐使制度を廃止(894年)します。

元寇を撃退した鎌倉武士

このあたりから、日本は、中国文化の影響を強く受けながらも、徐々に日本独自の文化を発展させていきます。両国間の交流も低調になりましたが、鎌倉時代になると、突然中国(元=蒙古)の軍が朝鮮(高麗)軍を率いて大挙して攻めてきました。国難来る!文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)です。この時も、幕府執権の北条時宗は、事前に、日本の隷従を迫った文書を携えて来日した使者を決然と切り捨てたとか。

北条時宗 出典:Wikipedia

そして北九州の玄界灘に防壁を築き、全国の勇猛な武士を総動員して、元寇を撃退しました。「神風」が吹いたことになっていますが、実際には偶々うまい具合に台風がやってきて、一夜のうちに敵の軍船を沈めてくれたため、奇跡的に完勝に終わったということのようです。

私も先年所用で福岡へ行った時、博多湾の志賀島までサイクリングして、元寇に備えて築いた防塁の遺跡をいくつか見学しましたが、往時の鎌倉武士の心意気が感じられてちょっと感激した記憶があります。

日本文化と漢学の影響

その後、中国は明、清と時代が変わり、日本も室町、戦国時代を経て江戸時代になり、徳川幕府の鎖国政策で中国との交流(貿易)も制限されました。それでも三河出身の徳川家康が仏教を重んじ、儒学、とりわけ朱子学(陽明学)を、封建的な身分制度の維持にプラスだからという理由で奨励したこともあり、日本人の漢学の素養は一段と深まりました。寺子屋では論語など四書を徹底的に教えたので、江戸時代の日本のエリートの中国理解のレベルはかなり高かったようです。その影響は現在の日本人にも根強く残っており、私などもその一人だと考えています。とくに中学生の頃、漢文、漢詩にはまってしまい、将来は漢文の先生にでもなろうかと思った時期もあります。

明治維新までの日中関係

さて、こんな具合に日中関係1500年の歴史を辿るとキリがないので、この辺で端折りますが、要するに聖徳太子以来江戸時代までの両国関係は、若干の突発的事件(元寇など)を除き、比較的平穏、というか、むしろ没交渉に近い状態が長く続きました。だから、例えば朝鮮やベトナムのような中国と地続きの隣国と違って、日本は直接的な中国の侵略を受けるとか、逆に日本が中国に攻めていくというようなことはありませんでした。

一つの例外は、豊臣秀吉の2度の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)で、秀吉は朝鮮制圧の後中国本土から天竺(インド)の辺まで遠征する計画だったらしいですが、朝鮮出兵の段階で、中国の増援を得た朝鮮軍に手こずり、結局撤退。中国と直接戦うには至りませんでした。もし信長が生きていて、秀吉と一緒に出兵していたら、中国軍との直接対決の可能性もあったかもしれません。

というわけで、明治維新で日本が開国し、近代化するまでは日中が正面から軍事衝突することはありませんでした。

アヘン戦争で没落した中国

アヘン戦争 出典:Wikipedia

当時、中国(清)はアヘン戦争(1840~42年)で英国をはじめとする西欧列強にこてんこてんにやられ、清王朝はすっかり弱気になっていた、つまり「眠れる獅子」の状態で、まともに戦う体制になかったので、案外日本軍が朝鮮を超えて中国大陸に侵攻し、その一部を占領していた可能性はあります。ただ、英国などがそれを黙認するとは思えず、結局中途半端に終わったのではないかと想像します。

日中が本格的に戦ったのは,日清戦争(1894~95年)が初めてで、この時は、海軍力に優れた明治日本が圧勝しました。中国(清)は、軍艦建造費を西太后が遊興費などに無駄遣いしてしまって、戦力的に最低だったので、負けるべくして負けたわけです。おまけに戦後、中国は日本に多額の賠償金を支払ったので、財政的にも大きなダメージを受けました。まさに踏んだり蹴ったりです。そうした惨めな状況の中から、孫文や蒋介石が登場し、辛亥革命(1911年)で清王朝を倒し、新中国建設の模索が始まります。

日中15年戦争と日本の暴走

こうした長い両国の歴史を振り返って一つはっきり言えることは、聖徳太子の時代から明治時代までの両国は、雌雄を決するような決定的な争いを経験せずに、したがって、どちらが本当に強いかははっきりしないまま、お互いに何となく相手を意識しながらも、程々に付き合ってきたと言えるのではないかと思います。

それが一気に逆転したのは20世紀初頭以降のことで、日露戦争勝利で圧倒的に優勢になった日本は、余勢をかって、朝鮮併合(1910年)、続いて中国東北部に進出し、そこに「満州国」という名の傀儡国家を建設(1932年)。さらに「満州事変」(柳条湖事件、1931年)、「支那事変」(盧溝橋事件、1937年) を経て日中戦争へとエスカレートしていきます。しかし、調子に乗った日本は、広大な泥沼のような中国本土に足をとられてしまい、おまけに欧米列強を敵に回すことになり、敗退しました。一方、中国内では毛沢東が実権を握り、太平洋戦争(大東亜戦争)後、蒋介石一派を台湾に押し込め、共産主義による新国家「中華人民共和国」を建設(1949年)、今日に至っているわけです。

共産中国の台頭と驚異的膨張

毛沢東が創った共産中国は、かつての、どの時代の政権よりも強固に見えます。しかも国連の安全保障理事会の常任理事国という特権的地位を与えられているので、自分に不利な国連の決定にはすべて拒否権を行使できます。おまけに、核不拡散条約(NPT)上核兵器保有を公認されており,現に日本を何回も全滅させるだけの核ミサイルを持っています。現在約320発と推定される核ミサイルの半分は常時日本列島にターゲットされています。さらに経済力でも既に日本を追い越し、米国に次ぐ世界第二の経済力を誇っており、向こう10年以内に米国をも凌駕するとの予想もあります。

こうなってくると、力(武力)がものを言う現実の国際政治において日本は単独では中国に対抗できないので、日米安保条約に基づく日米同盟関係、また特に中国の核の脅威に対しては、米国の「核の傘」に依存して、自らの平和と安全を確保する以外にないという結論になります。日本は唯一の被爆国だし、独立国なのだから、あるいは憲法9条が守ってくれるから大丈夫だなどという、白昼夢のような議論がいかに無意味であるかは今更説明するまでもありますまい。

ただ、考えておかねばならないことは、いくら日米同盟が大事でも、それが未来永劫に不変ということはあり得ず、今後遠い将来を展望した時、日本は中国とどう付き合って行ったらよいか、私たち自身が、自分の脳髄を絞ってしっかり考えなければなりません。

(2021年6月28日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)

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編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。