五輪閉幕:「判官贔屓」の袖を絞らせた選手たち

東京五輪が閉幕した。続くパラリンピックもまた大きな感動を多くのテレビ桟敷の人に与えてくれることだろう。ここ数年、動画といえばもっぱらPC主体の生活で、めっきりテレビを見る機会が少なくなった筆者も、久し振りにテレビと長い時間向き合った。

閉会式の様子 NHKより

筆者は「五輪中止」を求める人がいることに心底驚き、5月半ばに「いつから日本は無責任国家になり果てた」と寄稿した。その時は日本選手の活躍への期待があった訳でなく、単に国際公約を果たせ、との思いだけだった。が、今はつくづくやって良かったと思う。

外国に「判官贔屓」に当たる言葉があるかどうか知らない。が、この17日間は、義経が尽くし抜いた兄頼朝に討たれるという薄幸な身の上に同情し愛惜する、この「不遇な者や弱い者の肩を持つ態度や感情」が、筆者にも強くあることを再認識した日々でもあった。

世界の206もの国や地域から参加する東京五輪のような国際スポーツ大会で、「判官贔屓」の態度や感情を向ける選手個人やチームの物差しは、一つは民族を特徴づける個々の選手の体格や身体能力であり、他は国力を反映する経済力や人口ではなかろうか。

これがため、男女別は勿論のこと、格闘技などでは体重別を設け、サッカーでは年齢の制限まで取り入れて、できるだけ同じ条件の下で競い合えるように工夫している。今回は実際の物議を醸さなかったが、今後はトランスジェンダー枠の設定が必要だと筆者は2月半ばに書いた。

しかしこれらの工夫にも自ずと限界があって、体重別といった階級制なしで速さや高さや投擲力などを競う個人種目では、どうしても身体能力や体格の差が出てしまうことは否めないし、同じことは球技などの団体競技でもいえるだろう。

今回の五輪で日本選手が、球技ではバスケやバレーやラグビーよりも卓球やソフトボールや野球で好成績を収め、サッカーで健闘したことや、階級制のない個人競技でも、体操やフェンシングやスケボーなどで多くの金メダルが取れたのは、その証左といえまいか。

となれば、筆者の「判官贔屓」が頭をもたげるのは、団体競技と階級制のない個人競技ということになる。その対象は日本人選手に限らない。今回もっとも「五輪」を感じたのは、女子200m予選で黒い長ズボンと白の半そでシャツで走ったパキスタンのナジマ・パルベーン選手だった。

優勝タイム22.11秒より6秒も遅い28.12秒は、50mほども離されてのゴールだった。が、それでも懸命に走る様子はトップの選手のそれに引けを取っておらず、結果が少々違っただけのことだ。こういう光景も五輪ならではで、筆者には好ましく思われた。

日本選手の活躍ぶりは、どれをとっても素晴らしかった。胸が熱くなり、大げさでなく幾度も袖を絞った。まずは池江選手の力泳だ。コロナ禍で良かったことなどほとんどないが、池江選手が五輪に参加できたのは、コロナ禍が幸いした数少ないことの一つだろう。

そして女子バスケットボール。平均身長の176cmは筆者と変わらない。ゴール下で彼女らのシュートが、見上げるような米国選手の手で何発ブロックされたか数え切れない。惜しくも敗れたが、何度も跳ね返されながら必死にくらいついた結果の銀メダルは立派の一言だ。

次は男子100mx4リレー。桐生・小池と同じく見ている側もただただ呆然。だが、山縣は「攻めのバトンパスを皆で選んだ結果」とし、桐生も「誰のせいでもない」といった。バトンの工夫でタイム差を埋める世界に関たる「カイゼン」の紙一重のミス、潔さが清々しかった。

白眉は何といっても女子1500mの田中希実選手だ。他より頭一つ小柄な田中選手がやや前傾した姿勢で、予選から先頭に立ってレースをグイグイと引っ張る姿には思わず手に汗握った。しかも後半ずるずる下がることなく、走る度に自分の日本新記録を更新して決勝進出を果たした。

メダルは逃したが8位に入賞したのは快挙だ。が、結果以上に筆者の涙腺を緩ませたのは、コースを下がる際に「どうもありがとうございました」とグラウンドに挨拶する姿。声が聞こえた訳ではないが、TV画面の口の形からきっとそういったに違いない。

勿論、スケボーの四十住さくら選手と開心那選手という若すぎる二人の金と銅も凄いことだし、ボクシングの入江聖奈選手のフェザー級金メダルと満面の笑顔も素晴らしく、観る者の気持ちを和ませた。が、筆者の「判官贔屓」の心には田中希実選手の姿が一番響いた。

子や孫を持つ我が身、どうしたらこういう子に育つのだろうかと、力走直後のインタビューに指でマスクを持ち上げながら、ここでも一生懸命に答える彼女の姿を見て、また一頻り唸らされた。最後に、ブレることなく五輪を開催した菅総理にも感謝したい。