呉座勇一氏の炎上と訴訟が提起した問題について考察を続けていると、與那覇の記事は「事実誤認」をしているといったクレームを稀に目にする。もちろん批判は歓迎だから、拙稿のどの部分が事実に反しており、正しくは何が事実なのか、妥当な論証とともにご指摘いただければ訂正するが、「事実誤認だ!」と叫ばれるだけでは対応のしようがない。
無責任な匿名の有象無象は黙殺すれば済むが、呉座氏による中傷の告発者として著名な「さえぼう先生」こと北村紗衣氏(英文学者。武蔵大学准教授)となるとそうもいかないだろう。たとえば先日、拙稿(連載その②)に言及した辻田真佐憲氏に対して、彼女はこうしたリプライを寄せていた(なお、両名に事前の面識はなかったものと思われる)。
辻田氏が「掲載拒否にあっていた」として紹介し、北村氏が「間違いだらけ」「事実誤認ばっかりの記事」と評しているのは、私が初めて呉座氏の問題を(炎上中に)採り上げた「論座」への寄稿(2021年3月28日)である。同稿は連載その②に記した経緯により、現在は無償では閲覧できないため、内容に反する中傷を一方的に拡散する者もいるようだ。
たとえば本連載のその③、その④で取り上げた嶋理人氏(歴史学者。熊本学園大学講師)は、拙稿の内容が「呉座さんは北村さんひとりを中傷しただけ」(嶋氏の原文ママ)だとする呉座擁護論だったと錯覚させる記述をしているが、まったく事実に反する。無償部分でも読めるとおり、私はまず北村氏への加害に関して呉座氏を批判した上で、有償部分では別の女性作家(のフェミニスト的な言動)を同氏が揶揄した事例について、明白に呉座氏の側が誤りだと断じ、彼の思考のいかなる点に問題があったかを指摘している。
さて嶋氏のような野次馬は措き、呉座氏との関係では被害者である北村氏が「論座」の拙稿に不満を抱かれていることは、炎上の最中からツイートを拝読して知っていた。その一端については、本年7月に発表した別稿(の特に3頁以下)にて考察したが、少なくとも管見のかぎりでは、北村氏が拙稿の「どの箇所にどのような事実誤認があるのか」を、公的な形で(=第三者が問題を理解できるように)説明されたことはないように思う。
「ない」ことを完全に立証するのは困難であるから、傍証を挙げよう。北村氏はTwitterのほかに、映画批評等を掲載する個人ブログを運営しており、呉座氏との係争でも同氏からの謝罪文を同ブログ上で散布するなどして、積極的に活用している(この行為には個人的に疑問がある。末尾の付記を参照)。しかしブログ内の検索機能を用いて検証しても、「論座」の拙稿に関して「これらの点が事実と異なるため抗議します」といった論証記事は見つからず、Twitter上での「読む価値なし」的なコメント以外はしていないように思われる。
一方で北村氏の方は明白に、拙稿が掲載拒否された経緯に関して「事実誤認」をしているようだ。「売り言葉に買い言葉」というわけではないが、強く言いすぎることは誰にでもあるので辻田氏への上記ツイートは措くとしても、続けて彼女が以下のように発言している以上、「與那覇の原稿が掲載拒否にあったのは、内容に事実誤認が多いと編集者が判断したからだ」とする無根拠な風説を、SNSで拡散していると言わざるを得ないだろう。
大学教員の(意外な)多忙さはよく知っているので、北村氏の手を煩わせないように「事実」を記しておこう。掲載を断られた1社目は、北村氏も複数回寄稿しているメディアである。編集者へのメールにはそのことも添えたほか、断片的な傍証から、当人が彼女とも交友があるのではないかと思われたので、あえてこちらから「不可なら不可ということで、早めにお返事をいただけると助かります」とも記した。結果的に「今回は掲載を見送らせていただけると幸いです」との連絡があったが、当方からも「互いに諸々、事情あってのことと思いますので、一切お気になさることなく」と返信し、友好的に別れている。
2社目からは、内容に関して全面同意といってよいメールを受け取ったが、同社は炎上前に呉座勇一氏とゆかりが深かったこともあり、それゆえの「著者擁護だ」と読者に曲解されるとかえって炎上を煽る怖れが強いので、拝辞させてほしいとの回答であった。3社目の拒否理由の説明は曖昧だったが、私の原稿を断った後、北村氏側の観点のみに基づく取材記事を立て続けに載せた媒体であるので、それとの兼ね合いだったと推測するのが自然である(辻田氏が別のツイートで指摘しているのも、おそらくは同じ現象かと思われる)。
上記の3メディアとはその後、別個の企画を当方から提案し、いずれも快適に仕事をさせていただいている。もし私が炎上中の話題に「あまりにも調査不足な記事、間違いだらけの記事」を持ち込もうとしたのであれば、編集者はそうした処遇をしないであろう。
この程度の「事実誤認」は、ネット上での諍いではよくあることだから、私としては本稿を通じて公に訂正したことでよしとしたく思う。しかしたとえば呉座氏から受けた中傷行為の実態についても、もし北村氏自身による「事実誤認」の拡散があるなら、10月29日から広く報じられている呉座氏と日文研との訴訟にも影響しうるものであるから、むろんより詳しく検証し批判されねばなるまい。
過日目にしたかぎりでは、すでに呉座氏の提訴が周知のこととなっていた11月4日の11:25に、北村氏は以下のようなツイートをしている。
「数年にわたって」というのは通常、「5~6年間にわたって」の意味で用いることが多く、いかに短く解釈しても3年近くは必要だろう。しかし呉座氏のアカウントのフォロワー(
それ以降の北村氏への言及は21年3月の炎上によって終わるわけだから、同氏が揶揄されていた期間は最長で見積もっても1年半弱ということになる。「数年にわたって」という北村氏の表記と、実態との乖離は相当に大きい(なお、ツイートで彼女が提示する呉座氏の謝罪文には「複数回にわたり」とあるのみで、年数等の記載はない)。
私は同じ11月4日の7:00に掲載された本連載その②の冒頭で、吉峯氏の発言へのリンクも添えた上で、炎上に至る経緯を可能な限り正確に記しておいた。わずかな時間差であり、北村氏が発言前に拙稿を目にしたかは定かでないが、彼女自身がたとえば「呉座氏は2015年頃からすでに、自分への中傷を繰り返していた」と主張する根拠を持ち合わせていないかぎり、進行中の裁判にも(誤った)影響を与えうる「事実誤認をSNSで拡散した」として、今後法的な場で責任を問われる可能性は十分にあろう。
前回(連載その④)の末尾にも記したとおり、人間は誤りうる動物である。ある一件については「間違いなく」被害者であったといえる人物であっても、当人がその後「間違えて」加害者となる可能性は常にあるのだ。それこそが、「いまさえよければ」の言い逃げ的な正義感によって、人民裁判的にオープンレターを運用してはならない理由である。
(付 記)
上記の11月4日のツイートにも見られるように、北村氏はDropboxのシェア機能を通じて、呉座勇一氏から受け取った謝罪文を今日に至るまで、自身のブログやTwitterで恒常的にアクセス可能にしている。こうした行為の妥当性に関しては疑問がある。
代理人を介して「謝罪文・謝罪広告」掲載の取り決めを行う場合、紙面やホームページに載せる「期間はいつまでか」を定めるのが通例である。たとえばもし呉座氏が「2か月間掲載する」との取り決めに反して2週間で削除したといった場合は、義務に違反したことになるから、北村氏はその旨を公表し批判するという、当然の権利を行使するはずであろう。
呉座氏のブログ上には謝罪文が見られない今も、
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與那覇 潤
評論家。歴史学者時代の代表作に『中国化する日本』(2011年。現在は文春文庫)、最新刊に『平成史-昨日の世界のすべて』(2021年、文藝春秋)。自身の闘病体験から、大学や学界の機能不全の理由を探った『知性は死なない』(原著2018年)の増補文庫版が11月に発売された。
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