「世界史が面白くなる首都誕生の謎」(光文社知恵の森文庫)では、世界の首都を紹介するだけでなく、日本の首都移転問題も扱っている。
それについては、すでに、「世界史が面白くなる首都誕生の謎:石原・堺屋両雄対決」「東京遷都の正しい経緯と司馬遼太郎の「嘘」」という記事でも紹介した。
さらに、松田学氏との対談が「世界史が面白くなる首都誕生の謎:石原・堺屋両雄対決」という形で公開されている。 動画の方が好きな方はぜひご覧いただきたい。リズムよくこの問題が俯瞰できると思う。
一方本稿では、東京遷都のあとの首都移転論について、本書で書いている部分のさわりを抜き出してご紹介したい。詳しくは拙著をご覧いただければ幸いだ。
帝都復興から日本列島改造論まで
東京遷都のあと首都を移そうという動きはなんどかあった。 明治終わりごろには、、京都に戻るべきだという意見も出た。東京湾に面し、相模湾や外房方面に上陸されたら防御帯がなく、防空面でも弱い東京は国防上も首都適地では無かった。
関東大震災の直後には、陸軍内での検討では、①京城南方の南山、②兵庫県の加古川、③八王子という候補地を選んだ。しかし、東京市民が遷都ではないかと騒ぎ、東京の地主の圧力もあって、早々に東京が引き続き帝都であるという宣言を出してしまった。
後藤新平が「千載一遇の機会」と帝都復興計画を進めたので、東京は近代的な帝都としての顔を整えたが、首都不適地であることが解消したわけでなく、太平洋戦争では弱さを露呈した。
戦後は、昭和40年頃に建設大臣をつとめた、河野一郎は、東海道新幹線の建設、利根川の開発、明石大橋、筑波研究学園都市、国際交流拠点としての京都国際会館などと並べて浜名湖周辺への首都移転を構想した。
しかし、河野の死とともにスケールの大きい国家デザインは放棄され、全国が東京に便利に行けるようにすればよいという方向に切り替わった。
全国は首都東京 → ブロック中心都市 → 県庁所在地というように階層化するように誘導され、そのお陰で福岡や札幌、仙台、それに県庁所在地は成長したが、京阪神や各都道府県ナンバーツー都市などは衰退した。
関西文化首都、仙台第二首都(防災のための東京代替)、九州をアジアとの交流拠点とするという構想はもっともらしかったが、すべては、もともと包括的な副首都機能があった京阪神から文化以外においてはその機能を奪おうとするものだった。
田中角栄の「日本列島改造論」もあって、新幹線や高速道路の建設が進み、工場や大学の郊外や地方への移転は実現したが、成長分野は東京へ、衰退分野は地方へというのではうまくいくはずがない。
さらに、竹下政権あたりから、「ふるさと創生」が話題になった。ひとことでいえば市町村単位の話である。私は、列島改造は陣笠代議士の発想、ふるさと創生は県会議員の発想で国家観に欠けていると思う。
平成の首都機能移転議論
1980年代の後半に、中曽根政権は東京を世界都市にするためには、一極集中も厭わずという政策を展開した。まず、東京を発展させ、その余得で地方にも恩恵が及ぶというものだった。
これが、東京一極集中とバブルの引き金になったので、にわかに首都機能移転問題が盛んになり、私も村田敬二郎、堺屋太一、宇野収、須田寛、水谷研二、月尾嘉男といった方々と友にこの問題のイデオローグの一人としてさまざまな提案をした。
結局、「国会等移転に関する法律」が議員立法で制定され、①那須方面(栃木・福島)、②東濃(岐阜)、③畿央高原(三重・滋賀・京都・奈良)の3つの候補地が選ばれ、15年ほどで国会や主要官庁が移転することが検討されることになった。
那須はブラジリア型、東濃はワシントン型、そして畿央は完全な自己完結型の都市で無く名古屋や京都・大阪などの機能を補完的に使うボン型のイメージだった。
しかし、バブルの沈静化もあったところへ、橋本龍太郎内閣の省庁再編問題が出てきた。そもそも首都機能の移転は、細かい改革を積み重ねるより、それを機にさまざまな制度、組織、習慣を一気に作り直す発想であった。
当然、省庁再編も含んだので、労多くして得るものが少ない省庁再編を先行させるより、首都機能移転のときにすればいいという発想だったのが、問題先送りと言われて、省庁再編に無駄な労力を使う羽目になり、それで機運が挫折した。
また、首都機能移転は道州制や中央リニア新幹線と同時に進めるのが王道のはずだったが、自治省などが道州制は自分たちの管轄だとし、大蔵省はリニアの財政負担を嫌がってリニア始めにありきの議論を嫌った。そして、東北派は東京からの所要時間をリニアを前提にしないで設定するように誘導したので、東濃や畿央高原については、東海道新幹線からの分岐線を建設して対応する案を用意せざるを得なかった。
つまり、現在の首長、地方議員、さらには霞ヶ関幹部の利害と衝突しないように、15年後にリニア新幹線の完成、道州制や基礎自治体の再編、霞ヶ関のスリム化と省庁再編、出張呼び出し型行政の最小化などをワンセットとして新しい国をつくるというシナリオはさまざまな守旧派によって潰された。