フラトリサイド(兄弟戦争)の終結を

ウクライナに侵攻したロシア軍は首都キエフなど各地で激しい攻撃を行い、ウクライナ当局の発表によると、戦闘開始7日目(3月2日)の段階で既に2000人の民間人が殺されたという。ロシア軍がキエフ制圧に本格的に乗り出すならば、更に多くの市民の犠牲が予想されている。

ロシア正教会関係者、モスクワ総主教のキリル1世(中央)に兄弟戦争の終焉を訴える(バチカンニュース、2022年3月2日)

ロシアとウクライナ両国間で停戦交渉が行われているが、両国の戦いを阻止するためにモスクワのロシア正教会(ROC)の司祭と助祭ら約200人が即停戦を要求する公開書簡を発表した。同内容はニュースサービスの東方典礼カトリック教会(NOK)の最新号に公表された。同書簡では、ロシア正教会の最高指導者キリル1世モスクワ総主教にその影響力を行使して、ロシア指導者に停戦を積極的に呼びかけてほしいと要請している。

聖職者たちは、「ロシア国民とウクライナ国民は兄弟だ。兄弟同士の戦いは止めるべきだ」と指摘、“フラトリサイド(兄弟殺人)戦争”の終結のために全ての人に行動を呼びかけている。そして、「ウクライナの人々は、銃の下ではなく、西や東からの圧力なしに、国の未来を自分で選択しなければならない。また、全ての兵士(ロシア人とウクライナ人の両方)が無傷で安全に帰国することを望んでいる」とアピールしている。

それだけではない。公開書簡の署名者はロシア国内の戦争反対デモで多数が逮捕されたことにも言及、「平和と戦争の終結を求める非暴力的な呼びかけは強制的に抑制されるべきではなく、法律違反と見なされるべきではない」と主張している。これらは明らかにプーチン大統領の強権政治への批判だ。ちなみに、同大統領は自身を、「5歳の時に洗礼を受けた正教徒」といってきた(「正教徒プーチン氏の『戦争と平和』」2022年2月14日参考)。

ロシアとウクライナ両国の主要宗派は正教会だ。ソ連邦が解体し、ウクライナが独立するとロシア正教会下にあったウクライナ正教会は一時、3分割された。ロシア正教会の管轄権から独立を願う声がキエフ総主教に所属する正教会から出てきた。コンスタンチノーブル総主教庁は一時期、ウクライナ正教会の独立に反対していたが、ロシア正教会がバルカンの正教会圏を主管下に置こうと画策してきたことに不快を感じ、キエフ総主教下のウクライナ正教会の独立を2018年10月に認めた。それを受け、キエフ総主教所属の正教会は2018年12月15日、独立正教会と統合し「ウクライナ正教会」を創設した。すなわち、ウクライナには、キエフ総主教庁系のウクライナ正教会と、ウクライナ独立正教会が統合して2018年に発足したウクライナ正教会と、ロシア正教のモスクワ総主教庁と関係を維持するウクライナ正教会が存在する。

ロシア正教会は過去、コンスタンチノーブル総主教庁に政治的圧力をかけてきたが、ウクライナ正教会の独立を阻止できなかった。ロシア正教会は332年間管轄してきたウクライナ正教会を失い、世界の正教会で影響力を大きく失う一方、モスクワ正教会を通じて東欧諸国の正教会圏に政治的影響を及ぼそうとしてきたプーチン氏の政治的野心は一歩後退せざるを得なくなった経緯がある。

ロシア正教会の最高指導者キリル1世は先月27日、ミサの場でプーチン大統領のウクライナ侵攻を擁護し、「ウクライナには同じ民族を分割しようとする悪の手が働いている」と主張している。その総主教下のモスクワのロシア正教会で200人余りの聖職者がロシア軍のウクライナ侵攻を「フラトリサイド戦争」と呼び、両国の和解を求めているわけだ。

興味深い点は、ベラルーシ正教会(ロシア正教会に所属)の信者たちがイニシアチブchange.orgプラットフォームでロシア正教会のキリル総主教にウクライナでのフラトリサイド戦争を阻止するため可能な限りのことをするように請願書キャンペーンを始める一方、ウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系)の首座主教であるキエフのオヌフリイ府主教に「耳を傾けるべきだ」と指摘、「ロシアは侵略者である」ことを明確にすべきだと求めていることだ。請願書にはこれまでに450人以上が署名している。彼らもキリル1世に、即停戦するようにプーチン大統領を説得すべきだと述べている。

オヌフリイ府主教は先月24日、ウクライナ国内の信者に向けたメッセージ(ウクライナ語)を発表し、ロシアのウクライナ侵攻を「悲劇」とし、「ロシア民族はもともと、キエフのドニエプル川周辺に起源を持つ同じ民族だ。われわれが互いに戦争をしていることは最大の恥」と指摘、創世記に人類最初の殺人として記されている兄カインによる弟アベルの殺害を引き合いに出し、両国間の戦争は「カインの殺人だ」と述べた。同内容はロシア、ウクライナ両国の正教会に大きな波紋を呼んだばかりだ。

このコラム欄で「弟アベルはどこにいますか?」(2022年2月24日)を書いたが、カインのアベル殺人は聖書の「創世記」だけではなく、ローマ神話にも双子ロームルスとレムスの同じような兄弟殺人物語がある。神の祝福を受け、恵みを享受する側とそうではない者の間にいがみ合い、妬み、恐れ、紛争、そして戦争が起きてきた。兄弟間の争いは今日まで続いてきている。ロシアのウクライナ侵攻は21世紀の「フラトリサイド戦争」だ。ロシア、ウクライナ、ベラルーシのロシア正教会指導者たちの停戦呼びかけはそれだけに注目される。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年3月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。