金九自伝に見る大韓民国臨時政府と二つのテロ事件(後編)

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その後、倭紙「上海日日新聞」に天長節祝賀式参加者は弁当と水筒と日章旗を持って来るよう布告が出た。金九は王雄を訪ね、再び上海兵工廠長に交渉して「日本人が使う水筒と弁当箱に爆弾を装填して、三日以内に届けて欲しい」と依頼してくれるように頼んだ。

(前回:金九自伝に見る大韓民国臨時政府と二つのテロ事件(中編)

兵工廠に行くと王伯修技師が爆弾の性能を実験した。鉄板の破片が空中に舞い上がる様子は壮観で、雷管を二十個試し、失敗がないのを確かめてから装着したそうだ。王技師は「東京で使った爆弾の性能が十分でなかったことを遺憾に思い」慎重を期したとし、無料にしてくれた。

4月29日朝、尹は虹口公園に向かった。金九は趙尚燮の店で、安昌浩宛てに「午前十時頃から以後、お宅にいない様に。何か大事件がある」と書いた手紙を急いで安に渡すよう店員に託し、李東寧の所に行って情報を待った。

午後1時頃、中国人の口に「虹口公園で誰やらが爆弾を投げ、日本人が大勢死んだそうだ」との話が上り始めた。ある者は「中国人が投げた」、ある者は「高麗人の仕業だ」といった。尹奉吉が天地を揺るがすこの事件を決行したと知る者は金九一人だった。

ジョージ・A・フィッチ

李東寧に詳細を報告していると、号外が「虹口公園で日本人の天長節祝賀式の檀上に大量の爆弾が爆発し、民団長の川端は即死、白川大将、重光大使、野村中将ら文武大官多数が重傷」と伝えた。当日は「中国人の仕業」だったが、翌日は尹奉吉の名が大きく印刷され、仏租界で大捜索が始まった。

金九は米国人フィッチに匿ってくれるよう交渉し、快諾を得て自宅二階全てが提供さくれた。フィッチは故F・フィッチの子息で、上海での独立運動の隠れた恩人だ。夫人は手ずから食事一切の世話を焼いてくれた。金九らはフィッチ宅の電話を使って誰が捕まったかということなどを探った。

手紙で言付けた安昌浩は李裕弼の家に行って捕まった。無実の同胞が捕まる恐れがあったので、金九は李事件と尹事件の「責任者は金九だ」とする声明を、フィッチ夫人に翻訳を頼んで通信社に送り、発表した。斯くて両事件の首謀者が金九だと全世界に知らされた。

倭は金九に60万元の賞金を懸けた。蒋介石政権は金九の身辺が危険なら飛行機を出してやろうと言って来た。きっと何か見返り要求があるに違いないが、金九には彼らを満足させ得るものもないと思ったし、またいたずらに他所の国の世話になることはないと思ったので、全て断った。

20日余りが過ぎたある日、フィッチ夫人が、金九がフィッチ宅に居ることをスパイが嗅ぎ付けてしまい、密かに家を取り巻いて見張っているというので、これ以上ここにいられないと知った。

金九はフィッチの運転する自家用車に夫人と夫婦を装って同乗し、大門を出た。なるほど中露仏のスパイたちがゾロっといた。その間をフィッチが車を飛ばし、仏租界過ぎて中国領にある停車場まで行き、汽車で浙江省嘉興(上海の南西百キロの都市)の秀綸紗廠(紡績工場)へと逃れた。

紡績工場は仲間が確保していた場所で、李東寧を始め、厳恒燮や金懿漢両君の家族も数日前に既に引っ越して来ていた。後で聞けば、金九らがフィッチ宅に隠れていることが発覚したのは、フィッチ宅の電話を乱用し過ぎたことからだそうだ。

以上が『白凡逸志』の「三・一運動の上海」章のあらましだが、筆者は拙稿「ヘボン博士と南京大虐殺捏造を繋げる上海の聖書印刷所」で、『コリアヘラルド紙』の記事の下記部分を引用した。

フィッチは蘇州生まれの米国人宣教師で、1919年には中国の上海で朝鮮人独立運動家たちに集会所を提供し、1920年代には朝鮮人救援会の理事や仁成学校の顧問を務め、1932年には虹口公園での尹奉吉の愛国的な行為の後、金九を避難させた人物である。

実行犯の尹奉吉が乗った車を運転していたジョージ・A・フィッチ(を、韓国は事件から36年後に叙勲した。)

記事には、1919年に上海の独立運動家に集会所を提供したとあり、また事件当日に尹が乗った車をフィッチが運転していたとも読める。が、『白凡逸志』に拠れば、フィッチ宅の提供は尹事件の後で、車の運転も実行日ではなくフィッチ宅からの逃亡時の様だ。但し、19年の集会所提供は金九が触れていないだけなのかも知れぬ。

その後の上海臨時政府

金九は、彼が国務総理になった26年頃の臨時政府は「最盛期に千余名いた独立運動者がついには十数名にもならない程」になり、また32年の虹口事件後に蒋介石からの逃亡用飛行機の提供を「いたずらに他所の国の世話になることはないと思ったので、全て断った」と書いている。

32年以降から光復までの上海臨時政府の規模については、「百余人の大家族」(37年11月の長沙到着時)で、金九も母と息子を帯同したと書かれているので、「百余人」のうち3~4割の独立運動家と6~7割の家族の人数だったのではなかろうか。

金九は「いたずらに他所の国の世話になることはないと思ったので、全て断った」と書く。が、金九が32年の尹事件で手配されてから日本降伏の報を出張先の西安で聞くまでの13年間の拠点と資金調達で、実際には彼が如何に蒋政権に依存していたかを『白凡逸志』から拾ってみたい。

嘉興では「毎日船に乗って湖水に浮かんだり」していたが、活動経費は「中国人の友人の同情と米国同胞の支援で」困難はなかったようだ。そんなある日、仲間の朴南坡が中国国民党員だった関係で、国民党組織部長兼江蘇省主席の陳果夫を介し、蒋が金九に会見を申し入れて来た。

金九が「百万の金を与えてくれれば日本、朝鮮、満洲」で暴動を起こすとの計画を示すと、蒋は「特務工作に拠ったのでは、天皇を殺しても別の天皇が立ち、大将を殺しても別の大将が現れるから、将来のためなら武官を養成してはどうか」といった。

後に息子の経国に特務部門を仕切らせ(『蒋経国伝』の著者江南を米国で暗殺した事件など)、自身も若い頃から散々テロをやった蒋の言とも思えない。が、ほぼテロしか能がない様に思える金九は「願ってもないことです」と答えている。

36年2月に臨時政府は南京に移ったものの、37年7月の盧溝橋事件で「韓国人の人心も不安定」になり、国民党政府も重慶に移ったので、金九らも「物価の安い長沙へ避難」した。長沙では「中国中央政府からの補助と米国同胞の支援」で「高等避難民というに足る暮らし」だったらしい。

やがて長沙も危険になり、湖南の張治中主席の紹介で広東省広州に移転した(38年9月頃)。2ヵ月後、蒋介石への重慶に行きたいとの申し入れが了承された。重慶での金九の仕事は、①「大家族」を呼び寄せる、③米国・ハワイから資金援助獲得、③左右合作の団体統一の三つだった。

③の統一は結局、左を除く新しい韓国独立党(金九執行委員長)が出来、金九は議政院でも国務会議主席となった。この時、李承晩はワシントンの外交委員長になった。

蒋の国民党政府は「大家族」のために「瓦屋根の家三棟を立て、市内にも一棟を買ってくれた」。「独立運動を支援して欲しい」との要請には「冷淡だった」が、独立党と臨時政府の光復軍(40年9月設立)の経費は外国の同胞の送金と、蒋夫人宋美齢が代表の団体からの十万元の寄付で賄った。

『白凡逸志』の「上海大韓民国臨時政府」の規模と拠点と日常に注目すれば、一時の「十数名にもならない」規模が家族を含め「百余人」になり、それが尹事件以降の13年間、嘉興、南京、長沙、広州、重慶(7年)へと追随した蒋政府の様々な庇護の下で逃亡に明け暮れたということになろうか。

金九は、光復に際し「我々がこの戦争で何の役割を果たしていないために、将来の国際関係においての発言権が弱くなるだろう」と懸念しつつも「南北統一政府」を頑強に主張、「南だけの独立」(48年8月)を目指す李承晩の「密命を帯びていたといわれる刺客」に暗殺された(49年6月)。

念のため反共で素朴な民族主義者の金九を筆者は嫌いでない。で、筆者の好まない文大統領の「三・一演説」を聞く前に、金九の描いた「三・一運動の上海」を知っておくのも良いと思う。

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