90年4月に初めて、ポーランド東部地域にいた戦争捕虜の消息に関する文書が公開されたが、それはソ連が取捨選択した内容だった。92年4月には、コゼルスク、オスタシュコフ、スタロビエルスクの各収容所にいたポーランド人捕虜殺害に関する文書収集を行う共同編集グループが結成された。
92年9月、ロシア政府文書問題委員会は、保有する収容所管理に関わる国家文書の複写を許可した。10月にはエリツィンによって新たな文書が公開され、その中で40年3月5日付のスターリンらのサインが入ったポーランド人戦争捕虜殺害決定の文書(べリヤ書簡)などが明らかになった。
95年から公開され始めた『カチンの森事件に関する文書』(以下、『文書』)は、39年9月17日のソ連侵攻以降のポーランド将校らの運命を辿る学術的文献だ。第1巻は『戦わずして捕虜へ、39年8月-40年3月』、第2巻は『全滅、40年3月-6月』、第3巻は『生き残った者の運命、40年7月-1943年3月』、第4巻は『カチンの反響、43年4月-2005年3月』と題されている。以下はその要点だ。
39年10月2日にベリヤがスターリンに送った捕虜の扱いに関する報告には、NKVDが捕虜を、民族、領土、職業、軍の階級ごとに分類し、ポーランド人将校のうち将軍、大佐、中佐とその他の上級国家公務員、軍関係公務員はスタロビエルスク収容所へ、情報機関員、防諜機関員、憲兵、警察官と看守はオスタシュコフ収容所へ、ドイツに分割されたポーランド領土出身の戦争捕虜はコゼルスク収容所とプティヴル収容所へ移送などの記載がある。
39年10月末から11月初旬にかけ、独ソ間でポーランド人捕虜の交換が行われた。独支配地域出身の兵約43千人が独に、ソ連支配地域出身の兵約14千人がソ連に、引き渡された。10月27日付の報告では、ナチスの迫害を恐れたワルシャワ近郊出身のユダヤ人が独に引き渡されるのを拒み、ソ連残留を望んでいるとの報告がなされ、翌28日に指導部からベリヤ宛にその願いは聞き入れられないとの返答がなされている。
40年3月2日にベリヤとウクライナ共産党第一書記フルシチョフがスターリンに提出した報告では、ポーランド人戦争捕虜の家族のカザフスタン移送が提案され、 3月5日にスターリンに宛てたべリヤ書簡では、25.7千人(14.7千人はポーランド人将校、11千人は西ウクライナ、西ベラルーシ地域にいる捕虜)を証拠提出なしに最高刑(銃殺)に処すると書かれ、スターリン、モロトフ、ミコヤンらの署名がある。
40年3月23~25日の報告に、スタロビエルスクの捕虜の処刑地ハルキフ(ハリコフ)の準備が整い、移送列車が待機しているとある様に、捕虜の処刑が決定するとNKVDで各収容所の責任者が挙げられ、処刑の場へ向かう手段、ルートが報告される。コゼルスクからカチン処刑地への移送は40年4月3日から始まり、移送された人数が日々記載されている。
オスタシュコフからカリーニン(現在のトヴェリ)への移送は4月24日から5月13日で、日付、出発時間、移送人数が表で示されている。スタロビエルスクからハルキフへの移送は、4月5日から5月12日に3,885人で、当時、コゼルスクに4,599人、オスタシュコフに6,364人、スタロビエルスクに3,895人の捕虜がいたことが分かる。
処刑に関しては、オスタシュコフの捕虜343人の処刑が行われたとの、4月1日に署名された5日付のメルクーロフ宛の報告がある。4月1日と2日のリストにコゼルスクからカチンに送られた692人の名前がある。5月21日から25日の間の報告では、3つの収容所から各処刑地に14,587人、ユーフヌフ収容所に395人が移送されたことが書かれている。
1940年7月1日頃の時点で、処刑を免れてコゼルスク、オスタシュコフ、スタロビエルスクの各収容所にいた捕虜の数は394人で、彼らは後にグリアゾヴィエツ収容所に移送された。文書にはその394人の軍の階級別、予備軍であればその職業ごとに人数が記載されている
収容所に関しては、日常生活や衛生状況や労働、捕虜と看守の対立などの報告書もある。40年12月には、捕虜と家族の手紙のやり取りや、家族・知人からの金や荷物を受け取ることが許された。グリアゾヴィエツの捕虜が、家族がカザフスタンへ送られ、悪条件の中での生活を強いられているという情報を知り得たことも報告に記されている。
41年6月22日の独ソ戦勃発に伴い、ベリヤは捕虜の移動を承認している。コゼルスクの将校捕虜909人はグリアゾヴィエツへ、リヴィウ(ウクライナ西部)収容所の兵卒と下士官はウクライナ東部の空港建設に従事するために移送された。どちらも今般の「ウクライナ事態」の戦場になっている。
これらの報告や承認文書からソ連領内にいる捕虜には、ポーランド人だけではなく、ウクライナ人、ベラルーシ人、リトアニア人、ラトビア人、エストニア人なども含まれることが判る。また最大規模の移送は、6月29日付の報告書にあるリヴィウの収容所から撤退で、列車400両が必要とある。
41年7月10日付の報告に「カチン」という名称が出てくる。カチン付近をドイツ軍が攻める前に、スモレンスク収容所にいるソ連人の囚人約千人を処刑するための護衛隊43名を挙げ、「スモレンスク-カチン」のルートが記載されている。カチンの森はソ連の囚人や逮捕者の処刑場でもあった。
41年7月30日にポーランド・ソ連軍事協定が結ばれ、両国は共にドイツを敵として戦うことに合意した。8月12日にソ連最高議会はポーランド人捕虜の恩赦とソ連領内での解放を法令として定め、10月1日付のベリヤからスターリンへの恩赦執行報告がある。だが、それまでに多くのポーランド人将校が処刑されていた。
ポ・ソ軍事協定に基づいてソ連内でポーランド軍を再編成することになったが、出頭するポーランド人将校の数が極端に少ないことから、41年12月初めにロンドンのポーランド亡命政府首相シコルスキがモスクワを訪れた。ソ連はシコルスキに提示するためのソ連領内のポーランド人捕虜の数を示した文書を準備していた。
42年4月4日のベリヤからスターリンへの報告書に、ポーランド軍42,254人がイランへ向かったとあり、そのうち軍人30,099人、軍人以外12,155人とある。ポーランド軍の人数が解放されたとされる人数より少ないことを、ポーランドは抗議したが、ソ連は兵士の徴集を早々と締切った。
42年9月にポーランド軍のソ連軍撤退終了の報告がされ、9月1日時点で69,917人がイランに向かったとある。なお39年11月1日時点でソ連内に在住していたポーランド人にはソ連国籍を与えられた。43年1月15日付の報告では、それらのポーランド人を強制的にソ連国籍に変更し、拒む者がいれば処罰すると決定されている。
以上、『岡野論文』から、『文書』の第1巻~第3巻に記載されている「カチン」の経緯の要点を述べた。その残忍な記述に戦慄し、またそれを克明に記録・報告させるNKVDの冷酷さにも言葉を失う。後編では第4巻などから「カチン」の断罪がどの様になされたかなどを述べ、その他の参考文献から「カチン」関するトピックに触れる。
(後編につづく)
【関連記事】
・「カチン」に倣え、ロシアの戦争犯罪の裁き(前編)
・「カチン」に倣え、ロシアの戦争犯罪の裁き(中編)
・「カチン」に倣え、ロシアの戦争犯罪の裁き(後編)