45年5月のドイツ降伏で欧州での大戦が終わり、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁くための「ニュルンベルク国際軍事裁判所」が45年11月20日から46年10月1日まで開かれた。「カチン」は同裁判で46年7月1日に扱われたが、「証拠不十分」として裁判から除外された。東京裁判の南京事件との彼我の差を感じる。
さて、4巻が公開されたものの、『文書』はロシアが保管している全てではなく、約2割が機密扱いとして未公開だ。が、『岡野論文』は『文書』の資料整理から明らかになった事項を通して、未公開文書に情報が存在する可能性かあると考えられる事柄をいくつか挙げている。
そのひとつに、ロシアがスターリンやベリヤ、NKVDの「カチン」関与を認めながら、個人の責任を追及し裁くような文書や記述がないことが挙げられる。当時、虐殺に関わったNKVDの人物名があるものの、ロシア検察は、被疑者の死亡やロシアの機密事項を理由に調査を終了し、被疑者誰一人の責任追及することなく、調査対象にもしていない。
『ミトローヒン文書』に「カチン」に関わったNKVDの人物の名前が登場する。Vasili Mironov(ミロノフ)とVasili Zarubin(ザルビン)だ。ミロノフは43年頃、ニューヨーク・レジデンシー(在住スパイ)の上級幹部、ザルビンは在米NKVDの上級幹部としてワシントンのソ連大使館からニューヨークとサンフランシスコのレジデンシーを管理していた。
「カチン」に加担した罪の意識にさいなまれ精神を病んでいたミロノフは43年8月、フーバーFBI長官に匿名の手紙を出し、ザルビンら10名のレジデンシーが外交官を隠れ蓑に、ソ連の諜報将校として米国で工作していることを伝えた。
手紙には、米国共産党代表Earl Browderと非合法レジデンシーのトップIskhak Akhemerov(アフメロフ)との関係や、ザルビンが「コゼルスクでポーランド人を取り調べてから殺した。ザルビンを憎んでいるある人物(実はミロノフ)はスタロベルスクで同じことをした」ことも書かれていた。
ザルビンの隠れ蓑が露見しそうになった事件は、44年初めのルイジアナ州知事主催のソ連大使館員のための夕食会で起きた。ザルビンは、彼をNKVD幹部と知るらしい婦人から、「将軍、お掛けになりませんか」と話しかけられたのだ。慌てた彼は「私は将軍ではありませんよ」と言った。
その夫人の知識を褒めた彼の正体を知る別の男性ゲストも、ザルビンにカチンの森で掘り出されたポーランド将校16千人の虐殺の見解を尋ねたのだ。狼狽したザルビンは「それは連合国内部に摩擦を起こすためのドイツの挑発で、世間知らずを欺く根拠のない主張だ」と答えた。
ザルビンは、この事件が彼の軽率な行動のせいでなく、なぜか米国人が、彼がコゼルスクでポーランド将校を取り調べたのを知っていたからだ、とKGBに弁明した。が、KGB人事局長は中央委員会への手紙で米国レジデンシーとしての彼の不手際を報告し、44年夏に二人はモスクワに召還された。
が、ザルビンはミロノフを犠牲にして地位回復に成功、対外諜報局副官に指名され、引退の際には、米国から得た驚くべき諜報の功により、レーニン勲章やレッドバナー勲章やレッドスター勲章などを授かった。
一方、強制労働5年の判決を受けたミロノフは、45年にも2年前にFBI長官に送ったのと同じNKVDのポーランド将校虐殺の情報を、牢獄からモスクワの米国大使館に持ち出そうとしたが、現行犯で捕まり、二度目の裁判を経て処刑された。
『ヴェノナ文書』にも同じ記述がある。FBI長官宛の匿名の手紙に、ザルビンがカチンである役割をしていたとあるものの、FBIには未だそれを証明する術がなかった。が、程なくヴェノナ作戦は、ザルビンが「敵の諜報機関の行動監視に気付いたこと、それは40年のカチンでの彼の任務が見破られたからだと思うこと」をモスクワに報告する43年6月1日の暗号通信解読に成功したのだ。
手紙にあるKGB将校の名前と肩書の記述もある。Pavel KlarinとSemyon Semenovはニューヨークのソ連領事館幹部、Vasily Dolgovはワシントンのソ連大使館幹部、Grigory Kheifersはサンフランシスコのソ連次席領事、Vladimir Pavlovはカナダのソ連大使館副大使、Lev Tarasovはメキシコのソ連大使館の外交官といった具合。プーチンの出自を思えば、今般、西側諸国から追放された数百人のロシア外交官の中に、こうした人物がいないと考える方が無理だろう。
『ハルノートを書いた男』にもザルビンとアフメロフが登場する。同書の表題はモーゲンソー財務長官の次官として「ハルノート」を草したソ連スパイのハリー・ホワイトだが、同書には著者の須藤教授も加わったNHK取材班が97年9月、41年当時ホワイトと接触した元KGB工作員にインタビューした時のやり取りがある。
ビタリ―・パヴロフというその工作員は、39年に一時帰国した「ワシントン郊外の非合法活動を指揮し、米国政府内に10組ほどの重要なエージェントを持つアフメロフ」から教示を受ける。そしてホワイト宛の書付を託されて米国に向かい、ホワイトとの接触に成功する。
が、書きたいのはそのことでなく、パヴロフが語る、40年1月のベリヤによるアフメロフとザルビンへの尋問風景だ。ザルビンが「カチン」に関わった頃の出来事らしいが、ベリヤの在外スパイに対する強圧ぶりが窺えるやり取りは、プーチンがショイグらに接する様を彷彿させる。
ベリヤは「ザルビン」と呼び、「はい、ラブレンチー・パーブロヴィチ」と直立不動で答える人物に「お前はどういう風にドイツ諜報機関に引き込まれたのか、祖国をどの様に裏切ったか話せ」と問う。その人は不安げに「誰にも引き込まれていません。私は上部の指示を遂行しました。祖国に尽くしました」と答え、ベリヤは「座れ、順番に調べていこう」と言う。アフメロフにも同様のやり取りがあったとパヴロフは語る。
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最後に「欧州人権裁判所」(以下、「裁判所」)の「カチン」判決について述べる。
欧州評議会の司法機関である「裁判所」は、個人の申立てだけでなく、国家が他の条約締約国に対して提起した国家間の申立ても審査する。締約国はロシアやウクライナを含む47ヵ国。「裁判所」は、影響力を有する理由を「判決に拘束力があるから」とし、「条約違反を認定された国家は、申請者が被った損害を賠償し、可能な限りその違反によって生じた状況を元に回復することが求められる」とする。
「カチン」の遺族の一部は事件に関する訴状6件を提出、12年4月に「裁判所」はロシアが、欧州人権条約第3条「拷問の禁止」(何人も、拷問や非人道的なもしくは品位を傷つける待遇を受けない)および第38条(事件の審理及び友好的解決の手続き)に抵触するとの判断を示した。
ロシアが、訴えを起こした遺族に非人道的対応を行ったことや「裁判所」に文書(捜査打ち切り決定書とその調査資料)を提出しなかったことを非難し、ポーランド人捕虜の大量虐殺を戦争犯罪として認定することができると判決した。そして戦争捕虜の扱いにおける人道的義務と殺害禁止が国際法の一部として取り決められており、法の遵守がソ連当局の義務だと述べた。
しかし「裁判所」が、訴状のうちの第2条「生命に対する権利」に違反するかどうかの判断を回避し、法的拘束力を以って未公開文書の公開や事件の再調査を求めることもしなかったことは、国際裁判に事件を持ち込んでも、歴史的事実を関係者間で確定することが難しい現状を明らかにする。
が、ロシアもウクライナも締約国でないICCとは違い、両国は欧州人権条約の締約国であり、また判決は「カチン」に関し、満足ではないものの原告の申し立ての一部を認めた。ウクライナや欧州各国は「ウクライナ事態」を、「カチン」に倣って「裁判所」に提訴すべきではなかろうか。
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