「カチン」に倣え、ロシアの戦争犯罪の裁き(前編)

高橋 克己

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2月24日に突如始まったウクライナに対するロシアの「特殊軍事作戦」が、「侵略」そのものだったことは今や紛れもない。そして、3月末にウクライナ軍が首都キーウを奪還して以降、周辺のブチャやボロジャンカで発見されつつある数百の遺体も、それがソ連軍による民間人に対する「虐殺」の犠牲者であることが国際社会に明らかにされ始めている。

4月5日に国連安保理で演説したゼレンスキー大統領は、視察したブチャの惨状を「第二次世界大戦後、最も恐ろしい戦争犯罪」とし、ロシアを激しく非難した。ロシアはウクライナの偽装と主張するが、ロシア軍占領中の衛星写真でも遺体が確認されるとニューヨークタイムズ紙が報じ、サリバン米大統領補佐官も民間人を「標的とするロシア政府の最高レベルからの計画があった」ことを情報機関が見つけたと述べた。

ウクライナによる偽装を強弁するロシアのこうした姿勢に対し、4月5日の朝日新聞コラム『天声人語』が「カチンふたたび」と題して取り上げたのを始め、ウクライナで起きている事態と第二次大戦中にポーランドで起きた「カチンの森事件」との類似性を指摘する意見がメディアなどで散見されるようになった。

関連してウクライナは2月26日、「ロシアがルハンスク及びドネツクにおいてジェノサイド行為が発生しているとの虚偽の主張を行い、ウクライナに対する軍事行動を行っている」として、ロシアを国際司法裁判所(ICJ)に提訴、ICJは3月16日、暫定措置命令を発出した。同命令には法的拘束力があり、ロシアは、軍事作戦を直ちに停止せねばならないといった措置が含まれる。

また3月9日には日本が「今回のロシアによるウクライナに対する軍事行動は、力による一方的な現状変更の試みであり、国際秩序の根幹を揺るがす行為」だとし、「明白な国際法違反であり、断じて許容できず、厳しく非難」するとして、「ウクライナの事態」を国際刑事裁判所(ICC)に付託した。日本の付託は英独仏などに続く41ヵ国目とのこと。

ICJとICCの違いを言えば、ハーグのICJは、国連の全加盟国を含む裁判所規程のすべての当事国に開放されるものの、裁判所の係争事件の当事者となり、紛争を裁判所に付託できるのは国家だけだ。が、管轄権は、国連加盟国が裁判所に付託するすべての問題および国連憲章もしくは発効中の条約や協定が規定するすべての事項に及ぶ。

他方、ICC国連からも独立した常設裁判所で、重大な犯罪、即ち集団殺害犯罪、人道に対する罪、戦争犯罪に問われる個人を訴追する。ICCは1998年7月にローマで開かれた全権大使会議で採択された「国際刑事裁判所ローマ規程」によって設立され、02年7月1日に発効した同規程の締約国は124カ国。先の大戦後に置かれた「ニュルンベルク国際軍事裁判所」や「極東国際軍事裁判所」は臨時の国際裁判所といえる。

だがメディアや識者の論調には、こうした提訴や付託の実効性に悲観的なものが少なくない。まずICJについては、日韓の竹島問題に見るように、「当事者の合意」の原則のために相手が応じない場合は裁判を行えないことが挙げられる。裁判所は出席を強制できるが欠席裁判は行われないので、結局は「拒んだ者勝ち」になってしまうことになる。

ICCへの付託についても「ローマ規程」の締約国の壁がある。ロシアもウクライナも非締約国だ(ウクライナは15年にICCの管轄権の受け入れを表明)。日本は07年に締約済だが、米国や中国は非締約国だ。

では今回のロシア軍によると見られるキーウ近郊都市での民間人の大量虐殺を、国際社会は裁けないのかといえば、そんなことはない。なぜなら「カチンの森事件」(以下、「カチン」)という前例があるからだ。以下に「カチン」の経緯と、それがどう裁かれたかについて述べてみたい。

参考文献は「カティンの森事件に関する公開文書から見る歴史認識共有への課題」(岡野詩子:岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第34号2012年11月)、『ミトローヒン文書』、『ヴェノナ文書』、『ハルノートを書いた男』(須藤眞志)など。本稿では便宜上「カティン」を「カチン」に統一している。

39年8月23日の「独ソ不可侵条約」に世界は唖然とし、平沼内閣は「複雑怪奇である」と声明して総辞職した。その秘密議定書には、ポーランド分割やフィンランド、エストニア、ラトビア、ベッサラビアをソ連の、リトアニアをドイツの勢力範囲とすることが謳われていた。斯く二正面戦争を回避したヒトラーは9月1日、ポーランド西部に侵攻、ここに第二次大戦が勃発した。

9月17日、ソ連もポーランド東部に侵攻しこれを制圧、ポーランド軍を解体して将校全員を拘束し、40年春頃までにスモレンスク周辺の収容所3ヵ所に移送した。しかし、この「独ソ不可侵条約」も「バルバロッサ作戦」、即ち41年6月22日のドイツとその同盟国によるソ連への侵攻作戦によってあっけなく破られることとなる。

ロシアに侵攻したドイツ軍は、スモレンスク近郊のカチンの森でポーランド将校ら約4千の遺体を見つける。43年4月13日、ナチスのゲッペルス宣伝相は40年3~4月にソ連当局によって殺害されたと思われる、頭部をピストルで撃ち抜かれて埋められている遺体数千体を発見したと公表した。ソ連はこれに反論、逆に41年8月に侵攻したドイツ軍に捕らえられ、大量処刑されたものだと主張した。

戦後、ソ連の勢力下に置かれたポーランドと東独、そしてナチスを否定して出直した西独も「カチン」に口をつぐみ、長年ナチスの仕業とされてきた。この戦争犯罪の全容が明るみに出始めたのは、85年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、グラスノスチ(情報公開)が言われ出した頃からだ。

87年にポーランドとソ連の合同歴史調査委員会が設置され、翌88年にはソ連がポーランド人のカチン訪問を緩和する。そして90年2月、共産党中央委国際局局長ヴァレンティン・ ファリンは「カチン」に関する機密文書が見つかったことをゴルバチョフに明かし、その犯行がNKVD(後のKGB)のベリヤとメルクーロフ(NKVD国家保安総局副総局長)が計画したものであると伝えた。

90年4月初めソ連共産党中央委員会政治局は、遂に「カチン」がNKVDによる犯行であることをTASS通信に報じさせることを決める。TASSは4月13日、ソ連は「カチンの森事件」が「スターリンの犯罪のひとつであることに深い遺憾の念を示し、発見された文書のコピーをポーランドに渡し、今後も文書の捜索を続けていく」と発表した。

決め手になったのは、ドイツの犯行とするには掘り出された遺体の腐敗が進んでいることや、手紙、日記、写真、認識票など数多くの遺品の日付のどれもが40年春以前の、ドイツ侵攻前のものであることなどだったとされる。

そして91年のソ連崩壊後、ロシアは全4巻からなる『カチンの森事件に関する文書』を、95年、98年、01年、05年に公開した。中編では『岡野論文』から、公開された文書のポイントをまとめる。

中編につづく

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