岸信介という政治家とその時代の真実

安倍さんはなぜリベラルに憎まれたのか~地球儀を俯瞰した世界最高の政治家』(ワニブックス)では、岸信介から安倍晋太郎、晋三という三代の政治家を紹介しているが、晋太郎については「安倍晋太郎と晋三の似ているところと似てないところ」で紹介した。

そこで今回は岸信介について紹介。ここでは「本当は誰が一番?この国の首相たち」(SB新書) の内容に少し手を加えたものだ。

「革新官僚」というのは、戦前、財閥系に支持された市場経済派の政治家などに対抗し、計画経済の導入をめざした一連の官僚群である。そのなかに、商工省で産業政策を確立し、満州国の建設にも活躍した岸信介もいた。東条内閣の商工大臣だったが、戦況が悪くなると倒閣の立役者となった。

戦後はA級戦犯容疑をかけられたが赦免され、反吉田陣営における官僚出身大物として頭角を現した。アメリカと対等の同盟国となり、その枠内でかつての大東亜共栄圏や強力な産業国家の樹立にかけた夢のうち可能なものの実現を図ろうとし、日米安保条約の改定など積極的な外交を展開した。

ただ、民主主義の捉え方が独特なのだ。国会などでの議論への対処は、いささか荒っぽい。ただ、選挙で決着をつければいいという考え方で、ある種、ナポレオンとか「開発独裁」タイプの指導者と似ている。

「棺を覆いて事定まる」とは、盛唐の詩人杜甫の言葉である。石もて首相の座から追われ、彼が弟の佐藤栄作や、政治的後継者である福田赳夫の後見人であることは彼らにとってマイナス・イメージですらあったが、晩年には「昭和の妖怪」などといわれて賛否両論となり、その死後には、多くの人が戦後最良の宰相だと言っている。「宰相の資質」を書いた福田和也などもその一人である。

山口県南西部の田布施町というとこころで、1896年に生まれた。瀬戸内海から一山越した中山間地域だ。生家の佐藤家は長州藩の無給通(給領地を持たない下級武士)で、土佐の郷士に近いような階層だ。幕末の信寛は吉田松陰と親交があり、維新後に島根県令をつとめ、職を通じて蓄財したらしい。母の弟で医者だった佐藤松介の感化で志し高く成長し、旧制一高、東京帝国大学から農商務省入りした。

のちに農商務省は農林省と商工省に分割されたが、岸は商工省を選び、ドイツに視察に行って、産業合理化運動と呼ばれる同業組合を介した手法を学び取り、今日にまで至る産業政策の枠組みを打ち立てた。満州国の建国後には、総務庁次長となり、帰国後には商工省の事務次官になった。近衛内閣では民間から起用された商工大臣・小林一三(阪急の創立者)と対立して辞職させられた。

岸信介商工相と東條英機首相(1943年10月)
出典:Wikipedia

満州時代から親しかった東条英機首相のもとで、商工大臣(のちに軍需省に改組され、東条が大臣を兼ねたので国務大臣兼事務次官)となった。「英米の圧迫を跳ね返すために、開戦して緒戦の勝利を背景に有利な条件で講和する」べきだと考えたらしい。しかし、本土空襲の出撃基地として使えるサイパンが陥落したのちは、戦争継続不可能として倒閣に動いた。

戦後は、山口に隠遁していたが、巣鴨プリズンに収監された。東条らが処刑されたあと解放されたので、「A級戦犯容疑者」ではあったが、「A級戦犯」そのものではない。追放解除ののち、社会党へ入ってかつての革新官僚仲間だった和田博雄らと行動を共にしようと模索したが、吉田側近だった弟佐藤栄作の手引きで自由党に入った。そののち、民主党幹事長として鳩山内閣の実現につとめ、保守合同のために政治力を発揮して自由民主党の初代幹事長となった。

岸の一貫した国家構想は、産業政策によって経済を育成し、アジア諸国のリーダーとして影響力を拡大することであった。戦後においては、植民地を失い満州国もなかったが、アジア諸国が独立していたことは、それを補うに足るものであった。

アメリカから自立するとか、中国やソ連ともアメリカと等距離の関係とするなどという鳩山や石橋が夢想したかもしれない国際関係は現実的とも思えなかったが、吉田のやや極端な対米協調路線も徐々に修正していく必要もあった。

そうした二つの路線の隙間にあって岸が展開したのが、日米安保条約を改定して「対等(双務的)」の関係とすることと、アジア外交だった。「空飛ぶ首相」などといわれた岸は、就任早々、ビルマ、インド、パキスタン、セイロン、タイ、台湾を訪れた。インドではネルー首相から「日露戦争の勝利が自分の一生を決めた」といわれ、台湾では蒋介石とアジア発展のために日本が積極的に関与することの同意を得た。

そのうえで、岸はワシントンへ飛び、国務長官ダレスと日米安保条約の見直し協議の同意を取り付けた。東条内閣の閣僚だった岸にアメリカが最初から好意的だったはずはないが、岸はあらゆる知恵を駆使して、日本の政治家のなかで少なくとも相対的に頼りにしてよいパートナーであることを理解させたのである。

岸はこの条約を改定する努力に全力を傾注する。そのために、警察官職務執行法(警職法)の改正、教員の勤務評定の導入などを図ったが、前者は社会党から「デートもできない警職法」などと喧伝されて挫折した。新しい安保条約の批准に当たっては、激しい反対デモを抑えるために、アウトロー勢力まで動員することを考えた。自衛隊の出動も赤城宗德防衛庁長官に打診したが、赤城から「自衛隊は平和裡に犠牲者を出さずに民衆を鎮圧するようにはできてない」と反対され断念した。

また、国会での批准審議でも、「極東の範囲」などについて、政府側の答弁は粗雑で、そうした意味でも強い疑問を呈されるのも仕方なかった。

たしかに、岸の国家構想は優れたもので現実的でもあった。だが、その実現に向けてのやり方はいかんせん荒っぽかったし、戦後民主主義に慣れ親しんだ国民に受け入れられるものではなかった。

民主主義がいい結果を保証しないなどと言うのは当たり前で、それも承知でプロセスを尊重するのが民主主義なのである。好ましい結果をもたらさないからといって無茶をしていいのなら、それは民主主義の全面否定にほかならない。

憲法改正問題は岸にとって最大の関心のはずだったが、このころは、社会党も強力であり、必要な議席数を確保できる目処は立たず、とりあえずは、横に置かれた。

経済については、もともと、商工官僚だった岸にとって関心が低かったとは思えないが、外交に対するほどには興味を示さず、独占禁止法の骨抜きを狙った改正案を出したものの農協などからも猛反対されて断念したことくらいが目立った動きだった。

農協は肥料や農薬について、メーカー側の支配力が強まることを恐れたのである。このときに、左派や消費者団体などと農協が協力して大産業資本に対抗するという図式は、その後も、しばしば力を発揮する。そのことで強い競争政策が維持されたことについては、功罪あるが、その一方で、公正取引委員会や消費者団体が農協などを「友好勢力」と位置づけ、農業分野における競争阻害に甘くなったことは、現在に至るまで、良質で安い食品の供給を阻害する宿痾となっている。

岸の時代には、アジアで民主主義はまだ根付いていなかった。そして、北朝鮮経済は順調だったりして共産主義が優勢になりつつあった。非同盟諸国といっても実際にはソ連・中国よりの諸国だった。

コミンテルンの時代ではないが、ソ連に操られた国際共産主義運動は強力で、日本も含めてあらゆる場所で秘密結社的な動きもしていた。

それにCIAを中心に西側は、かなり汚い手やブラックな勢力も動員して対抗していた。国内でさまざまなセクトの共産主義勢力やスパイも暗躍していた。それに対抗するにも、朝日新聞出身の緒方竹虎が日本版CIAも実現せず、機動隊も弱体だった。

そういう時代に、岸信介が右翼とか宗教集団も使ったのは事実だが、それを今日の基準で批判するのは不適切だろう。それは、緒方だってそうだったし、アメリカではケネディだってそうだったのである。

そして、岸はそういう勢力を利用したことはあったが、自身は堅気の人間だ。そこが、本人が裏社会そのものだった河野太郎の祖父・河野一郎や大野伴睦らとの違いだったし、それもアメリカが岸を評価した理由だといわれる。

実際、岸は政権維持のために、後継は大野、ついで河野という密約をしたが、いざ退陣するときは、岸派を解散して、「約束を守りようがない」ととぼけて池田勇人が首相となることを実質支援した。