神社チャンネルでの羽賀ヒカルさんとの対談の前編を、「皇室の国際的序列・肩書でなく歴史と国力が決め手」として紹介しました。後編は、安倍首相の業績を採点するとすれば、外交・防衛120点で内政は75点という話で始めています。
内政がなぜ75点に留まらざるを得なかったかというと、安倍さんが一人で頑張ればよかった外交・防衛と違って、内政は国民各層の協力がいるからだということは、『安倍さんはなぜリベラルに憎まれたのか』で論じたことです。
ですから、安倍さんに志がありながら、十分に成果を上げられなかった内政の改革を成し遂げられる指導者の出現を待ちたいわけですが、日本の歴史で断然、大きな改革に成功したのが誰かと云えば、豊臣秀吉であるとしています。
その秀吉の改革の全貌は、『令和太閤記 寧々の戦国日記』で詳細に論じています。
ついで、扱っているのは、宗教の話題で、まず秀吉はどんな信心だったのかという話題を論じ、ついで、旧統一教会の問題を取り上げています。
対談相手が宗教の専門家である羽賀さんですから、宗教の問題として少し突っ込んで話していますのでぜひ視聴してください。
本稿では、秀吉と信長の信心について論じてみます。私は、『武将が信じた神々と仏』という本の監修をしたことがありますので、この本の中身も含んでいます。あまり類書がない良い本です。
番組でもいっていますが、秀吉は実用的に役に立つなら、仏教、神道、キリスト教を問わず庇護するし、役に立たないなら懲罰するという現実主義者でした。
ですから、キリスト教を禁じたりしましたが、それほど厳しいものでありませんでした。仏教はあまりありがたりませんでしたが、統治に協力するなら、それを評価し荒れた伽藍の復興など積極的にしています。
延暦寺の再建を許したり、本願寺の京都への帰還をゆるしたりしたのが典型です。また、天台宗方広寺の大仏も建立しました。
子どものときに預けられていたのは、名古屋市中村区の光明寺という浄土宗のお寺です。母親の大政所なかが建立し墓があるのは、大徳寺内にあった天瑞寺という臨済宗のお寺です。姉のとも(日秀尼)は熱心な法華宗の信者で、晩年に住んだ村雲御所は、秀次の居城だった八幡山城の跡に映され、瑞龍寺となっています。
また、寧々が晩年、暮らした高台寺は最初、曹洞宗だったが没年に臨済宗に転宗しています。
しかし、秀吉は神道に興味をもち、「日輪の子」といってみたり、伏見稲荷を崇拝したりしましたが、死後は新八幡神として祀られることを希望しました。しかし、朝廷は、豊国大明神という神号を与えました。
それでは、信長はどうかと云えば、織田家はもともと越前の織田剣神社の神主の家計であり、菩提寺は日蓮宗でありました。無神論まではいきませんが、迷信などは嫌っていました。
それでも、尾張では熱田神宮と津島神社(当時は津島牛頭天王社)を大事にしていました。また、伊勢神宮も保護しました。
キリスト教は、一神教的な発想に憬れを感じていたし、西洋の文明をもたらしてくれるころにも、メリットを感じていたのでしょう。
ただ、信長にとっては、自分が神であって、もしかすると、長生きしたら新興宗教を始めた可能性もあります。
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