外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫
今年は、1月から始まったNHKの大河ドラマ「どうする家康」の影響もあって、「徳川家康ブーム」が全国的に盛り上がっており、生地である岡崎をはじめ三河地域に関心が集まっているようです。私も昨年秋に二度郷里の新城市へ行ったついでに、岡崎城、吉田城や、長篠・設楽原合戦(1575年)の古戦場など、ゆかりの場所を訪ねて、一足先に歴史のおさらいをしてきました。
その時改めて思ったことですが、子どもの時からなじんできた「三河」とは地理的に言うと正式にはどこなのか、そもそも三河と尾張の境はどこなのか、また、三河の名称の起源は何か。知っていたようで実はあまり正確には知らなかったことに気が付きました。そこで、この機会にまず「三河」について雑学的にまとめておきたいと思います。
とはいえ、私は専門の歴史家でも郷土史家でもないので、おおかた耳学問とか、インターネット情報の受け売りで、正確さに自信があるわけではありません。もし明らかな間違いがあれば、あるいは補完すべき関連情報などがあればぜひ、どしどしご教示いただきたく思います。
三河と尾張の境界は?
周知のように、明治初年の廃藩置県で、三河と尾張が合併して愛知県になったわけです。細かな経緯は省略しますが、なぜ三河の名を消したかは疑問。勘ぐれば、薩長主導の明治新政府が徳川時代の匂いのする三河という地名を忌避したからでしょう。
それはさておき、地理的に三河(東愛知)と尾張(西愛知)の境界はどこにあるのかが最初の疑問です。
不勉強な私は、以前の記事で触れた志賀重昂の「三河男児の歌」の冒頭にも出てくる矢作川が三河と尾張の境界だと漠然と思い込んでいましたが、色々調べてみると、これはどうやら間違いで、矢作川よりさらに西寄りの、三河湾の衣ヶ浦湾に注ぐ「境川(さかいかわ)」という小さな川が三河と尾張の境界線だというのが定説のようです(ちなみに、豊臣秀吉が無名の日吉丸だったころ、橋の上で寝ていて、通りかかった蜂須賀小六正勝に出会ったのも矢作川だと思っていましたが、これは史実ではなく、江戸時代の講談師などの勝手な創作のようです。矢作橋が架かったのは慶長6年(1601年)で、秀吉の死後)。
従って、境川の東側にある現在の刈谷市や豊田市などは三河、西側にある豊明市や日進市などは尾張ということになります。現に豊明市と刈谷市の間には「境橋」という橋が旧東海道沿いにか架かっているそうで、それが何よりの証拠とされていますが、残念ながら、私は実際に見たことはありません。
三河の地名の由来
次に、三河という地名の由来について。私はうかつにも、長年三河とは「三つの川」という意味で、それは矢作川、豊川と、もう一つのどこかの川だと思い、それはどこの川なのだろうかと詮索してきました。
ところが、いろいろ調べてみると、三河(大昔は参河とか三川とも表記)は、元々矢作川の美称で、「御河」と呼んだからだとか、矢作川の支流の一つである「巴川(ともえがわ)」あたりを指す地名であったらしいとか、いろいろな説があるようです。この巴川は、巴山から発し、岡崎市内を流れる乙川(男川)の源流でもあり、この川が現在新城市と岡崎市の境界にもなっているそうです。
大昔、東征に向かう日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの川べりに立ち、巴状に水が流れるのを見て名付けたとも言い伝えられているとか。また、12世紀初めに三河国の国司となった歌人の藤原俊成は、この地域を視察した際に「つるきたち 三河の水の みなもとの 巴山とは ここをいふなり」という歌を詠んだそうで、歌碑が巴山頂の神社に建っている由。何となく風景が想像できる気がします。
というわけで、地名の由来については諸説あり、はっきりした定説はないようですが、私が調べた範囲では、この三河=巴川説が一番確かなように思われます。いずれにせよ、豊川、矢作川、巴川とも、愛知県の屋根と言われる段戸山の山塊に源流があり、そこに目を付けて壮大なスケールで歌い上げた志賀重昂はさすがだと感心します。
なお、三河は奈良・平安時代は「穂国(ほのくに)」とも呼ばれていたとのこと。
三河武士と「三河屋」
さて話を本題に戻して、三河出身の家康は、信長、秀吉亡き後、晴れて征夷大将軍に任命され、関東平野に本拠を置き、江戸幕府を開きますが、そのとき、家康や諸将に従って、三河の武士たちも一族郎党を引き連れてはるばる江戸にやってきました。いずれも戦国の乱世を質実剛健、武勇一筋で生き抜いてきた強者ばかりでしたが、幕府の土台が固まり、平和な時代が始まると、当然様子が一変します。もはや以前のように合戦で活躍して殿様からそれなりの恩賞をいただき、それでいっぱしの暮らしをしていくことはできなくなりました。
そこで、殿様から、お前らも今後はまともに働いて自分の食いぶちくらいは自分で稼ぐよう努力せよと言われて、しぶしぶ商売を始めるのですが、なにせ士農工商の身分制度の頂点にあぐらをかき、威張って暮らしてきたので、商売のやり方がわからない。というより、そもそも、人にぺこぺこするのが苦手。つまり典型的な「武士の商法」で、うまくいくはずがなく、いろいろ仕事を始めてみても長続きしません。
それでも、江戸の下町に住み着いた一般の下級武士たちが、見よう見まねで何とか営業できたのが、米屋、魚屋、酒屋、味噌屋など。江戸時代中期になると、薩摩、長州、土佐などからすご腕の政商や豪商(高利貸し)が現れ、やがて三井、三菱のような大財閥にのし上がっていきますが、三河武士でそこまで成功した例はなかったようです。現在でも東京の下町や山の手、例えば私が長年住んでいる世田谷あたりでも、懐かしい「三河屋」という看板を掲げた店が時々目につきますが、それらは大方米屋、酒屋、魚屋のような小口の専門店です。
ただ、それも昭和の終わりころまでで、近年ではスーパーやコンビニに食われてしまって閉店・廃業が相次いでいるようです。私の朝の散歩道にもそうした「三河屋」がいくつかありましたが、最近はめっきり少なくなって、寂しい限りです。
ちなみに、かなり前ですが、「三河屋」は、テレビアニメ「サザエさん」でも取り上げられ、それがきっかけで、2012年2月に「全国三河屋さんサミット」が東京で開催されたことがあります。これを主催したのは「WE LOVE MIKAWA」という東京在住の若い三河出身者の任意団体。会場は港区赤坂の豊川稲荷神社。当日は、屋号の由来やお店の歴史を語り合ったり、特産品の試食会を実施したりして大いに盛り上がったと聞いています。
この団体は、このほか、時々集まってごみ拾いや清掃などのボランティア活動も行っていたようですが、現在はあまり会員が集まらず活動を休止している模様。ぜひ頑張って復活させてほしいものです。
三河弁が現代標準語の元?
ついでにもう一つ。江戸に住み着いた三河人たちは当然三河弁で日常会話をしていたので、その方言(アクセント)が徐々に江戸かいわいに広がっていったと考えられます。三河弁は、私も子供時代普通に使っていましたが、語尾に「のん」「だら」「りん」などがつきます。呼びかけるときは「あののん」、相づちを打つときは「そうだら」という具合で、何となく素朴で愛嬌があるものの、いささか泥臭く、田舎臭い感じは拭えません。
そこで、江戸に住み着いた三河出身者たちが改良を重ね、さらに明治維新で東京と改名されてからは、国の指導もあり、次第にハイカラになっていきます。その結果、「のん」は「ですね」とか「ですよ」とかに変化。つまり語尾に来る助詞が変わっただけで、全体のアクセントやイントネーションはそれほど大きく変わっていません。それが、日本語の標準語になって全国に広がっていったと考えられます。
私は言語学の専門家ではないので断定はできませんが、どうも現在の標準語の原型は三河弁だという感じがしてなりません。もしそうであれば、我々現代の三河人はもっと自信を持って良いのではないかと思います。ただし、だからと言って、三河出身者が昔流の三河弁を東京でも堂々と使うべきだなどというつもりはありません。大阪弁や京都弁は、テレビタレントやお笑い芸人などが東京でも大ぴらに使っており、あまり違和感がありませんが、三河弁はちょっと、という感じなので、まあ、東京では使わないでおきましょう。なお、三河弁が標準語の原型だという私の仮説について、何か異論や異説がある方は是非ご教示ください。
三河人の性格・気質
さて、最後に、以上を踏まえて、私なりの三河人論、つまり三河人の特徴的な性格や気質について論じてみたいと予定していましたが、既に紙幅が尽きたようなので、いずれ後日に譲り、今回はごく簡単に私見を述べておくことにします。
ここで再び岡崎出身の志賀重昂に登場してもらうと、彼が「三河男児の歌」で熱烈なエールを送った三河男児とは、例えば九州男児などと対比してどのような特徴があるか。イメージ的に一言で言えば、やはり質実剛健。派手さは無く、スタンドプレーは苦手で、基本的に実直、愚直、剛直。そして、その原型が家康ということになるのではないかと思います。
俗に家康には、晩年の風貌からして「狸親父」とか、豊臣家を計画的に滅亡させた手口から「謀略家」などという暗い印象がありますが、他面、260年に及ぶ泰平の時代の基礎を築いた慎重さ、堅実さが真骨頂。そうしたDNAは現代の私たち三河人の末裔にも受け継がれているのではないか。そして、そのことを私たちは誇りに思って、今後とも日本の「へそ」として地道にかつ堂々と胸を張って生きていくべきではないかと愚考する次第です。
【追記】
本稿を書くにあたっては、岡崎市在住の小田章恵さん(元新城市教育長・中西光夫氏の長女)と、彼女を通じて入手した岡崎在住の深田正義氏(清酒「長誉」「三河武士」等の蔵元、丸石醸造株式会社の元社長)の著作などを参考とさせていただきました。深く感謝します。
(2023年2月5日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)
編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。