教皇「十分!兄弟よ、もう十分だ!」

ローマ教皇フランシスコは12日、慣例の日曜正午のアンジェラスの祈りでハマス人質の解放とパレスチナでの停戦を改めて呼び掛け、「十分!兄弟たち、もうたくさんだ!」(Genug! Genug, Bruder, genug!)と叫び、「全ての人は平和に生きる権利を持っている」と語った(バチカンニュース11月12日独語訳)。

ウィーン市庁舎前広場のクリスマス市場の風景(2023年11月12日、ウィーンで撮影)

イスラエル軍とパレスチナのイスラム過激テロ組織「ハマス」との戦闘が勃発して以来、フランシスコ教皇は度々、コメントしてきた。ハマスが10月7日、イスラエル境界網を破り、侵入して音楽祭に参加している若者たちやキブツ(集団農園)を襲撃し、1300人余りのユダヤ人を殺害するというテロ事件が報じられると、フランシスコ教皇は、ハマスのテロ襲撃に恐怖を表明し、「私は、暴力がエスカレートし、何百人もの死傷者を出したイスラエルでの出来事を懸念と悲しみで見守っている。私は犠牲者の家族に親密な気持ちを表明し、彼らと、何時間もの恐怖と、恐怖を経験している全ての人々のために祈る」と語った。紛争当事者に対しては、「攻撃を止め、武器を捨てるべきだ。テロと戦争は解決につながらず、多くの罪のない人々の死と苦しみをもたらすだけであることを理解してほしい」と訴えた。

そしてローマ教皇は10月11日のサンピエトロ広場の一般謁見で、「攻撃された者には身を守る権利がある」と明確に述べ、イスラエルに自衛権があることを初めて公言している(「教皇『イスラエルには自衛権がある』」2023年10月15日参考)。

イスラエル・ガザ戦争が始まって1カ月が過ぎた。軍事的に圧倒的な力を有するイスラエル軍はガザ地区北部をほぼ制圧したという。ただ、イスラエル側の空爆は続き、病院や難民収容所が破壊され、女性や子供、患者たちが犠牲となっていることが報じられると、国際世論はイスラエルの自衛権を認める側もやはり少々やり過ぎではないか、といった声が飛び出し、イスラエル批判の声が広がり、停戦を求める声が高まってきている。

複数のメディアによると、イスラエル側にこれまで1400人以上の犠牲者が出、パレスチナ側には1万人を超える死者が出ている。フランシスコ教皇が「十分、もう十分だ。兄弟よ」と叫んだのも当然かもしれない。特に、後者はハマスのテロリストの戦死者数ではなく、大多数はイスラエルの報復攻撃で出たパレスチナ人の犠牲者だ。

ところで、イスラエル人、パレスチナ人が住む中東は「信仰の祖」と呼ばれたアブラハムからユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3大唯一神教が生まれた地だ。イスラム教の創設者ムハンマド(570年頃~632年)は、「アブラハムから始まった神への信仰はユダヤ教、パウロのキリスト教では成就できなかった」と指摘し、「自分はアブラハムの願いを継承した最後の預言者」と受け取っていた。いずれにしても、ユダヤ教(長男)、キリスト教(次男)、イスラム教(3男)は兄弟関係だ。

少し、アブラハムについて説明する。アブラハムには妻サラ(正妻)がいたが、年を取り子供はいなかった。そこでサラは仕え女のハガルにアブラハムの子供を産むように勧める。アブラハムはハガルとの間に息子イシマエルを得る。イシマエルはアラブの先祖だ。神はハガルとイシマエルに対しても「将来、大きな民族として栄えるだろう」と祝福している。イシマエルから派生したアラブでイスラム教が生まれ、今日、世界に広がっているわけだ。

一方、神はサラにも1人の息子イサクを与える。そのイサクからヤコブが生まれた。ヤコブは母親の助けを受け、イサクから神の祝福を受けた。そのため、イサクの長男エサウは弟ヤコブを憎み、殺そうとしたので、ヤコブは母親の兄ラバンの所に逃げる。そこで21年間、苦労しながら、家族と財産を得て、エサウがいる地に戻る。その途中、夢の中で天使と格闘し、勝利する。その時、神はヤコブに現れ、「イスラエル」という名称を与えている。

米イェール大学の聖書学者、クリスティーネ・ヘイス教授は、「名前を変えるということは、その人間の性格が変わったことを意味する」と解釈している。すなわち、ヤコブは21年間、伯父ラバンの下で苦労した後、謙虚になり、信仰を深めていった。そこで神はヤコブに将来の選民の基盤が出来たとして「イスラエル」という名前を与えたわけだ。故郷に戻ったヤコブは、エサウと再会し、和解した。アダム家の長男カインが弟アベルを殺害して以来続いてきた兄弟間の葛藤はこの時、初めて和解できたわけだ(「『アブラハム家』3代の物語」2021年2月11日参考)。

イスラエルの著名な歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏はレックス・フリードマン氏のポッドキャストでイスラエルの現状について、「問題が国家的、民族的なものだったら、妥協や譲歩は可能だが、信仰や宗教的な対立となれば、妥協が出来なくなる。イスラエルとパレスチナ問題は既に宗教的な対立になっている」と述べている。宗教指導者には責任がある。たとえ、砂漠で叫ぶ声となったとしても、言わなければならないのではないか。兄弟関係ならば猶更だろう。「十分だ、もう十分だ。兄弟よ」と。

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編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年11月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。