昨年『「逆張り」の研究』を刊行された綿野恵太さんと、ブックファースト新宿店で対談イベントやります。2/23(金・祝)の14:00~で、申し込み方法等はこちらから。
私も昨年出した『危機のいま古典をよむ』とのジョイント企画で、タイトルはずばり「古典をよむのは『逆張り』ですか?」です(笑)。
綿野さんとは、デビュー作だった2019年の『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の増刷時に帯を書かせていただいて以来、なにかと縁がありました。当時の帯がいまも書店で手に入るかわからないので、文面を再録しておくとこんな感じです(他の推薦者は、千葉雅也・増田聡・梶谷懐の各氏)。
「意識の高い俺ら」で結束して充足感を得る人たちが、ネットで反差別を振りまわす際に放つ屍臭の正体を解剖。同じ瘴気に当てられる前に、なにより反発して差別者になってしまう前に、接種必須の「読むワクチン」の誕生!
いま振り返ると、2つ大事なポイントがありますよね。1つは、ここで「屍臭」「瘴気」と呼んでいるものこそ、要は、自分は「順張り」をしていると思い込む独善的な精神だということ。
反差別の運動は、みんなが長らく自明の前提だと思ってきたことに対して「いやいや、それは差別なんですよ」と主張するところから始まる。その意味で、あらゆる反差別は定義上「逆張り」から出発します。そして遠い将来には、自分としては反差別だと思って行った主張が「残念ながら、それもやはり差別だったんですよ」として、新たな逆張りに晒されないとも限らない。
ところがいまのネット社会で目立つのは最初から、かつ永遠に自分が「順張り」だという態度で、反差別を云々する人たちです。こう主張すれば仲間に入れてもらえそうという目星をつけ、頭数を十分確保した上で、その集団の内側でのみ「うおおおお俺たちは『順』! うおおおおお批判するやつは『逆』!」と叫び続ける。要はニセモノですね。
もう1つは、先にも触れたとおり『「差別はいけない」と…』は2019年の本で、私は同年10月の4刷時に帯を寄せたので、上記の「ワクチン」の文面は翌年の新型コロナウイルス禍よりも前に書かれているということです。
ワクチンの本質を人文学の語彙で定義すれば、これまた「身体と健康への『逆張り』」でしょう。ある程度飼いならした形で、あえて体に悪いもの(擬似的なウイルス)を体内に入れる。その結果として、本当にヤバいウイルスに直撃される前に、免疫を手に入れる。
しかしご存じのとおり、コロナ禍で起こったのは「ワクチンは『順張り』だ!」の大合唱だったんですね。それも新たに開発されて、まだ十分解明されていない機序を持つワクチンを「打つのが当然」といった雰囲気が煽られて、死亡も含めた健康被害が出ている。コロナ収束に果たした役割についてすら、近日は疑念が寄せられ、欧米を中心に科学的な再検証も始まっています。
こうした一時の勢いだけで「俺らは順張り」だと錯覚してしまうという時代の病は、どうすれば治癒できるのか。手がかりとして私の場合は、「古典をよむ」という処方箋を考えているので、ぜひその有効性についても綿野さんと議論できればと思っています。
多くの方にご来場いただければ幸いです!
追記(2月10日)
Yahoo!のサービスである「PassMarket」でも、デジタルチケットを購入可能になったとのことです。こちらからどうぞ。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年1月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。