神戸徳洲会事件を考える:重箱の隅を突いて救急医療崩壊させてはならない

NHKより

神戸徳洲会病院で薬剤切れの後、90代患者が死亡した。医療ミスが相次ぐこの病院だが、この事例は不適切な処罰賠償まして病院存続問題さらに「救急難民」問題に発展しないよう、注意深く観察吟味すべきだ。また原因に社会国家として対策すべきだ。

今回事件の概略は、福祉施設で心肺停止した90代患者がこの病院に搬送され救命処置により心拍再開つまり蘇生救命に成功した。しかしその後点滴の薬剤が無くなりアラームが鳴り、家族が看護師を呼んだが予備の薬剤が無く、数時間後に患者が死亡した。

一見すると看護師がすぐに、または事前に対応せず薬剤も無くそれが原因で死亡したように見える。しかし超高齢化の中で徳洲会のような救急病院、あるいは介護現場の現実を知っていたら、違う文脈理解になり得る。

90代で入所する福祉施設とは介護老人福祉施設いわゆる特養(特別養護老人ホーム)、または介護老人保健施設である。どちらも車椅子や寝たきりの要介護度が重い自立不能さらに心不全や老衰が進んでいる末期患者が多くその受け皿、言わば死期が近い人が多い。

今回死亡した患者について疾患状況や認知症、要介護状態の報道は無いが、統計的には90代では約半数は認知症であるので、車椅子か寝たきりでさらには認知症かも、というのが患者像になる。

一方、超高齢化で救急搬送患者の大半が高齢者、少なからずが要介護者や認知症である。入院が長期化し診療報酬減になるため理由つけて受け入れ拒否も多く、それがたらい回しの原因である。しかし徳洲会は「生命だけは平等だ」「24時間365日オープン」を理念に掲げ、空きベッドがある限り救急受け入れするよう強く指導が行き渡り、現場の士気も高い。

ゆえに救急病院一般の傾向でもあるが、業務繁忙な為、慢性的に人員(特に看護師)不足である。特に夜勤時間帯は最低限の人員配置にならざるを得ない。筆者も徳洲会OBであるが、60床を在職者17名で看護していた、日勤帯で看護師4人ということすらあった。

血圧を上げる薬はいくつかあるが、点滴で用いられるのは通常カテコラミン類と言われるもので、重症者に使用する。言い換えるとそれを投与されているなら、薬の力が無ければ生きるための最低限の血圧の維持も難しい瀕死、生きるか死ぬかの重症を意味する。若く体力があれば回復することもあるが、90代要介護者では一般的に考えて回復可能性は非常に低い。つまり(盲目的)延命医療である。

以上の現実から再構成すると、文脈が変わる。要介護となり死期も迫りつつあった90代の人が基礎疾患悪化か食事の誤嚥窒息などで心肺停止し救急搬送された。懸命な処置でなんとか蘇生したが、血圧維持できない瀕死の重篤な状態だった。

「延命治療差し控え、自然な看取り」の話をしたかしないかの状況で、「生命維持薬」の準備がされていなかった。そのため患者自身に「自力で生きる力はもはや無かったので」死亡した。詳細報道が無いので推測ではあるが。

なお報道では薬剤切れてすぐ死亡したようになっているが、数時間後という報道もあった。報道も恣意的であった可能性がある。

そもそもカテコラミンが切れた直後に死ぬなら、自力生存能力が無い、延命治療の是非が問われる。いや常識で考えて理由が何であれ、老人ホーム入所していたような90代の寝たきりかそれに近い人が心臓止まって、無事に生き返って元気になる、と考えられるだろうか!? 本来天寿だったのに、無理やり延命しようとしてしまっただけではないのか。静かで尊厳ある看取りを単にかき乱しただけではないのか。

もう一つの問題がある。「介護施設で、看取りができない」ことだ。大きな原因は、国家資格の介護福祉士含めた介護専門職が、大卒から「現場たたき上げ」まで多彩なレベルであることだ。介護資格制度が、よくも悪くも理論上は小学校卒でも介護福祉士になれる(努力し合格すれば)という制度と能力の問題、さらに「看取りケアの経験、指導教育が不足」それが問題だ。

そのため特養や多くの入所介護施設は、病状が悪くなれば救急要請し病院に「投げる」。他所で死なせるためだけに救急車を呼び入院させる。「終の住処」など実はあまり無い、介護難民、看取り難民が今後発生しかねないのだ。

一方、救急側は「救命」が任務だから懸命に救命せんとする。筆者も徳洲会で経験しているが、市民病院すら断る患者でもベッドがある限り受け入れる、どんな状態でも全力を尽くす、それが徳洲会である。ヤクザでもチンピラでも生活保護は当たり前のホームレスでもなんでも診る、「生命だけは平等」だから。ホームレスに仕事や住まいの世話までして退院させたことまであった。

実は世の中では救急病院と言いながら、夜間休日はレントゲンも取れないところも多い。徳洲会は基本的には全部門当直し全部門稼働している。それでも救えない命は、不手際があったとしても、残念だが本人が生きる力を既に失っていた、天寿ではないか。

問題は結局、超高齢化そして盲目的延命医療と救急医療の不適切利用の是非に帰結する。90代で介護施設入所者が心肺停止した。それはよほど瑕疵が無ければ、寿命、天寿のはずである。なぜ静かに看取ってあげられなかったのだろうか。「大往生」聞かなくなり久しい。

天寿近い人を救急搬送して蘇生させて、もし植物状態になったら。実際そのような人を徳洲会勤務時に経験している。瞳孔散大、つまり脳死なのに人工呼吸で生きて、死臭を何日も発散してから死んだ、家族など一度も来なかった。人工呼吸器管理になれば医療費は月百万前後になる。ただし高齢者医療ではタダ同然になるが。

一方、夕方30代二児の母の喘息発作の入院対応したことがある。顔色が既に悪く(チアノーゼ)、先輩ナースがICUを無理やり手配してくれたが、転棟直後に亡くなった、まだ小さな子供を遺して、、、どうして救命できなかったのかと、今も想い出す。救急車の平均到着時間も病院到着時間も不適切利用によりどんどん延長している。本当に救命すべき人を救えなくなっている。

筆者はこのアゴラに「大口病院事件に見る盲目的延命医療の闇」で初寄稿した。また、「高齢者の新型コロナワクチン接種後の死亡補償金は適切なのか」で、コロナワクチン接種後死亡の補償金が不適切ではないかとも投稿した。

老人におもねるソンタクする医療そして盲目的延命が、医療そのものを蝕み破壊してはいないか。元気だった自立していた人が突然死んだら、おかしい。しかし要介護ということは病気で既に具合が悪い、死が近づいているのだ。それを騒ぎ立てて、尽くした命の支え手を重箱の隅突くように責め立てて、何になるのだろうか。

介護需要増にも関わらず、介護職が社会的地位の低さ薄給低所得ゆえに、ついに減少に転じた。救急医療崩壊も言われて久しい。その理由は、特に高齢者の軽症者が「コンビニ119番」するからと言われている。そのため松坂市は、先駆けて「不要な救急搬送は有料化」した。

介護施設が「看取りは病院にコンビニ丸投げ」システムは崩壊しつつある。このままでは「要介護になどなってはいけない、要介護になったら野垂れ死に」する社会になりかねない。

天寿を全うできるはずの高齢者を無理やり盲目的延命するために、救急医療リソースを無駄に浪費し、救える命を死なせてしまうことになりかねない。それでいいのか、どうするべきか、考えるべきだ。

【参考記事】