「専門家の時代」の終焉


いま連載を持っているので、送っていただいている『文藝春秋』の4月号が届いた。すでに各所で話題だが、「コロナワクチン後遺症の真実」として、福島雅典氏(京大名誉教授)の論考が載っているのが目につく。タイトルが表紙にも刷られているので、今号の「目玉」という扱いだ。

お世話になっているから持ち上げるわけではないが、『文藝春秋』は月刊誌の中では破格の部数を誇る(らしい)。読者の高齢化が揶揄されることも多いが、逆にいえば新型コロナウィルスで亡くなる割合が高く、ワクチンの効能が大きかったとされる年齢層が読む雑誌にも、ついにワクチン批判の論考が載ったことになる。

この意味は、とても大きいと、思っている。

思い出してほしい。コロナワクチンのうち、日本で主流だったファイザー社/モデルナ社の製品は、mRNAワクチンと呼ばれる初めて開発された種類のものだった。その機序を具体的に説明せよと言われても、たまたま重なる分野を大学で専攻した一部の人を除いては、ほとんどの国民ができなかっただろう。実際に、僕もできない。

人類史上初の製品で、どんなしくみで効くのかが自分にはわからないワクチンなのだから、「本当に安全なの?」という疑問を持つのは自然なことだ。ひとまずはそう尋ねてみて、説明を受け十分に納得できたと思ったら、そのとき初めて接種を決める。それはなにもおかしいことではない。

ところが現実に起きたことは、違っていた。

mRNAワクチンの接種に「反対」するのではなく、単に「大丈夫なのか?」と疑問を表明するだけでも、「お前は反ワクチンだ」「非科学的だ」「反知性主義でありバカだ」「こういう人がコロナの収束を遅らせる」「国益を損ねる」といった罵声が浴びせられ、沈黙を強いられる状況が出現した。浴びせた側の多くは、医療の「専門家」を自称する人々である。

正確には、本人が専門家ではない場合すらあった。TV・ラジオから個人の動画配信まで、ウチの番組は「専門家にご出演いただいています」という点を売りにするメディアの関係者も、ワクチンは疑問を持たずに接種一択!(疑問を呈する人は社会の迷惑)とする論調に雷同した。当人は収録時にちょこっと専門家と同席しただけで、なんの知識もないにもかかわらず。

気づいてほしいのは、2020~23年の長きにわたった異常なコロナ禍の中で、同じ風潮が社会のあらゆるトピックに浸透したことだ。

たとえば、トランスジェンダーの女性は女子トイレを使う権利があるとする考えがある。それに対して「反対」するわけではないが、トランスジェンダーを自称する異性愛の男性が便乗して、性犯罪を目論むことに利用する危険はないのかと「疑問」を呈する人もいる。納得がいく説明がなされるなら、むしろ積極的な「賛成」に転じる可能性を持つ人たちだ。

ところがSNSで猖獗を極めたのは、疑問を抱いた時点でそれは「反トランスジェンダー」と同じであり、教養のない差別者だと決めつけて罵倒する振る舞いだった。もっともそうした人の多くは、2023年のLGBT法制定に際して自分の主張が圧倒的な少数派だと気づくや、しれっと口を拭ってなにも言わなかったふりを装っているらしいけど。

2022年に始まり今なお続くウクライナ戦争をめぐっても、まったく同じ構図があった。

ウクライナはロシアに勝てるのか、という「疑問」を提示することは、「反ウクライナ」とは違う。ましてロシアの侵略を容認するのとはまったく異なる。しかしおおむね23年の春までは、そう口にするだけで「お前は親露派だ」「プーチンと同じ犯罪者だ」「正義に反する人非人だ」と罵られかねない状況が続いていた。

そうした空気を作り出した人のうち、「当事者」については必ずしも責められないと、僕は思っている。

コロナ治療の現場で疲弊した医師が、「ごちゃごちゃ疑わずにワクチンを打ってくれ!」と叫んでしまう気持ちは、当否とは別に人情としてはわかる。本人がトランスジェンダーだったり、ウクライナの出身だったりしたら、訴えに疑問を呈されるだけで「ムッ」とすることもあるだろう。

しかし問題は、横から割り込んでくる「専門家」と称する人々だ。彼ら彼女らの多くは、(なんらかの識見は有するのかもしれないが)当事者ではない。そして、その人が本当に当該の問題を専門としているのか否かも、実際にはさして吟味されない。メディアが「この人は専門家です」として紹介すれば、そのままを読者や視聴者は信じる。

そうした「専門家」の主張に従ってコロナワクチンを打ち、亡くなったり、後遺症が残った人がいる。だからといって即「ワクチンは無意味だった」とは決められないが、少なくとも、もはやその存在は隠し得ないし、隠すことは許されない。

ウクライナについても同様だ。西側諸国の支援にもかかわらず敗色が濃くなるにつれて、「専門家」が当初の態度を翻す例が目立ち、かつて信じた視聴者からの批判を受け始めている。

先月話題になった例だが(配信は23年12月)、上記の切り抜き動画の冒頭部では議論の口火を切った専門家が、「ほとんど冗談で投票したらゼレンスキーが当選した……気楽にゼレンスキーに入れたら大統領になっちゃったと。ドラマと同じ展開になっちゃって面白いねっていうことだったわけですし」(発言のママ)と述べて、炎上を招いた。

ゼレンスキーがコメディアンの出身で、政治経験がなかったこと自体はファクトである。しかしウクライナ戦争の開戦時には、そうした事実に言及するだけで「ウクライナ支援に水を差すのか」「プーチンの方が凄いと言いたいのか」「ロシアを利する発言だ」と非難された。当該の専門家自身が、SNSでそうした「不謹慎に見えた発言」へのバッシングを煽ってきたことに関しては、証言に事欠かない(実際に僕も見た)。

結果として、動画の炎上後に専門家氏は追い詰められ、以下の通り表明して、SNSでの発信を停止することになった。

東野篤子氏のTwitter(X)より

この声明は実に奇妙だ。「職場〔発信者は正規の大学教員〕に迷惑がかかる事態はどうしても防ぎたく」とはどういう意味か。ウクライナ支援という国際的な「正義」のために発信を続けてきたのなら、多少炎上したところで職場にいかなる「迷惑」がかかるのか。むしろそうした発言を続ける教員を守ることこそ、大学の義務ではないのか。

それとも指摘されれば職場に迷惑がかかる類の、「不適切」な内容ないし態度でSNSでの発信を行ってきたことを、専門家氏は認めて反省するという趣旨なのか。その場合になすべきは、公開の場での謝罪の表明であるはずだろう。アカウントに鍵をかけて「新規のX投稿を無期限で停止する」のは、単なる言い逃げ学者に等しい、言論人として最も無責任な振る舞いである。

僕は、この人個人を批判したいのではない。この人とは面識も、なんらの恩讐もないし、だからこの人だけが問題を反省すべきだとも考えない。

真に反省すべきは、「専門家」の看板を掲げれば批判はおろか、一切の疑問さえも封殺でき、そうした厚遇を自明視して異論の持ち主(と本人が見なした相手)をいくらでも罵倒することが許される状況。そうした環境を作り出し、その下で収益や視聴率から「いいね」の数まで、おこぼれにあずかってきた人たちの全体であると思う。

13年前の3月11日以降、私たちは誰もが、立場や分野を問わず「専門家」を盲信することの危うさを見せつけられたはずだった。しかしその記憶はいつしか立ち消え、瞬間ごとの空気を読んで「専門家の私が言うから信じろ」と時の世論にお墨つきを与える、民意ロンダリングのようなビジネスが定着してしまった。

眼前の問題への発言権を独占する「専門家」という、正体不明の「言いたい放題パスポート」の発給を、私たちはもうやめる時が来ている。それがコロナで、ワクチンで、ウクライナで、パレスチナで、トランスジェンダーやフェミニズムで、多大な犠牲を払いながらこの社会が学んだ教訓であるべきだ。

「そういうお前はどうなんだ?」と問う人もいるかもしれない。僕は2020年のコロナ禍以来、なにかの「専門家」を名乗って発信したことはないつもりだが、それを理由に自分の言論の責任から逃げることはしない。

少なくとも自分が(読まれたかはともあれ)それなりの回数にわたり発言してきた、コロナワクチンについて、ウクライナ戦争について、しかるべき時期を見て、読者が振り返って妥当性を判断し、批判を含めて論評を仰げるように「これまでの言及」を一覧にしてまとめたいと思っている。

僕に「職場」はない。だから誰かに無理強いされたり、「迷惑」を恐れてやるのではない。それが自分の責任だと思うから、やらないと自分自身が恥ずかしくて居心地が悪いから、やるのである。

読者に乞いたい。「専門家」なる肩書を識者の免罪符に使うことを、もうやめてほしい。それはあなた自身の知性を損ねるだけでなく、当の専門家をも甘やかし、スポイルし、堕落させる。

彼や彼女が専門家か否かは、一切重要ではない。その人は時間が経ち情勢が変わった後でも、自身がかつてなした言動の責任を引き受ける人か。それとも単に「言い逃げ」して姿をくらます人か。それだけを見てほしい。

ホンモノを、応援してください。それができないなら、せめてニセモノの言論を拡散するのを、やめてください。そこにしか、私たちが嵌まり込んだ2020年代の迷路からの出口は、ないと思います。


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年3月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。