5月27日をめどに、與那覇潤さんとの対談を基に再構成した共著新刊『教養としての文明論』が書店に並びます。Amazonでも予約の受付が始まりました!
與那覇さんが本書にかける意気込みをネット上に発表されていますが、私の方でも自分なりの問題意識を述べた箇所を、本文から抜粋して以下に紹介いたします。
歴史学の世界でもポリティカル・コレクトネスを掲げる学者たちが、史実かどうか以上に「政治的に正しい歴史像か」を優先するようになっています。極端になると、「人類の半分は女性なのだから、歴史叙述の分量も半分を女性史に割くべきだ」と主張したりする。しかし「いまはこれが正しい」という価値観にあてはめて過去を再解釈し、その基準を満たすことが歴史を描く目的だと言うのなら、究極的には歴史学自体が要らなくなってしまいます。
この点でいうと梅棹の生態史観は、学者のあいだでは共産主義が「めざすべき理想の未来だ」と考えられていた時期に…(中略)…「帝国であり独裁だ」と指摘したわけだから、政治的に正しくなかった(苦笑)。
歴史学界が典型ですが、たとえば政治学者のサミュエル・ハンチントンが書いた『文明の衝突』(集英社文庫、原著1996年)って、日本では嫌われてきたわけです。あんなものは与太話で、宗教紛争や民族紛争を煽ることにつながる危険な議論だと。そこには冷戦終焉後の、自ずと世界は自由民主主義に収斂してゆくとする期待があったのですが、しかしいまリアリティを持つのは、梅棹やハンチントンの方ですよね。
むろん梅棹さんの「生態史観」を手放しで礼賛しているわけではありません。我々の評価をお知りになりたい方は、ぜひ本書をお手に取っていただければ幸いです。
さて、私が担当した「はじめに」を、刊行元のビジネス社の許可を得て、全文公開します。多くの方のご予約をお待ちしております!
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新型コロナウイルスでもウクライナ戦争でも、今や「専門家」がSNSで「大衆」を「啓蒙」してくれる時代である。なにか新しい事件が発生すると、「専門家」がたちまち現状を「分析」し、背景を「解説」し、「処方箋」を出してくれる。それは、バッティングセンターでボールが打ち出されるたびにバットを振るような、反射的・反復的な行為である。その見事なバッティングを脇で見ている私たちは、もう本を買って読む必要するないような気さえしてくる。
しかし、私たちは真の意味で知識を得て、じっくり問題を考えていると言えるのだろうか。確かにインターネットの発達は、とりわけ最近のSNSの発達は、自分が知りたい情報に手軽にアクセスする手段をもたらした。「検索」さえすれば、私たちは、現在、どんな話題が注目されており、その話題への言及の仕方として何が「正解」かをすぐに知ることができる。けれども、私たちは「いま」の「トレンド」に関する膨大な情報の海に飲み込まれて、過去からの連なりとして現下の情勢を捉える、歴史的な思考を失ってはいないか。
本当に「いま」は「未曾有の事態」で、過去は参考にならないのか。「価値観をアップデート」して、「不正義」に満ちた過去の社会から「いま」を切り離し、理想の社会を一から構築することなど可能なのか。あまりにも「いま」の来歴、眼前の事象の歴史的な文脈が軽んじられ、その場その場の「最適解」を瞬発的に繰り出すゲームばかりがもてはやされていないだろうか。
むろん、時々刻々と変化する戦況をリアルタイムで解説することも重要である。けれども人命の懸かった戦争の解説が、スポーツの実況解説と同じであって良いはずがない。自然科学なり地政学なり社会学なりといったもっともらしい衣をはぎ取れば、私たちが目にしているのは、「いま」起きている(ウイルスとの戦いや、SNS上の口論などのバーチャルなものも含めて)戦闘の目撃者となれたことを嬉々として誇る、野次馬たちの自己顕示的な講釈にすぎないのではないか。そのような懸念が拭えない。
右に述べたような「いま」を絶対視する潮流に抗して、「いま」が歴史の流れの中の一コマにすぎないことを示すのは、歴史学の社会に対する責任であり使命であろう。ところが、日本の歴史学界はむしろ世間の空気に同調し、形だけの政権批判を続けつつ、その実、「いま」を無批判に受け入れている。
そのことを象徴するのが、新型コロナウイルス感染拡大抑止の名の下に政府が国民に強要した「自粛」への対応であった。「緊急事態」という「錦の御旗」に歴史学者たちは屈服し、それどころかロックダウンなど、より強力な行動制限を政府に求めた。戦時下の日本が、非常事態を口実に私権制限を行ったこと、必ずしも政府の取り締まりではなく、国民が自発的に「非国民」を吊るし上げる相互監視によって国民の自由が奪われていったことを、歴史学者たちは厳しく批判してきたのではなかったのか。
もはや日本の歴史学者たちに、歴史的経緯を踏まえた世界の見取り図を描いてくれることを期待することはできない。では、どうするか。歴史学者の端くれとして、私になにかできることはないか。
そのような悩み、問題意識を、私は知人である與那覇潤氏としばしば語り合った。いや、正確に言うならば、私が與那覇氏に感化された部分が大きい。歴史学者を廃業するほどに、與那覇氏の歴史学への絶望は深いからである。
我々二人が思いついた突破口は、往年の文明論の名著を読み直すことだった。すっかり廃れてしまったジャンルであるが、長く日本のビジネスマンに「世界の見方」を教えていたのは、作家・評論家・学者らの手になる文明史、文明批評であった。過去の文明から現代を見通そうとするそれらの語りは、「雑な床屋談義」としてアカデミズムに見下されつつも、学界と社会をつなぐ回路になっていた。
だが、今では文明論の伝統も絶え、書店に並ぶのは、歴史学者が書いたマニアックで小難しい歴史書と、歴史学の知見を全く無視したトンデモ本・ヘイト本だけである。ゆえに我々は、「いま」を相対化するために「古典」と呼ぶべき文明論を読むしかなかった。
本書で取り上げる本は、みな数十年以上前の著作である。一般に優れた著作であればあるほど、その本が書かれた時代が刻印されている。しかしながら、それは決して古くささを意味しない。優れた文明論は、時代性と同時に普遍性を備えており、歴史の風雪に耐える。現代の視点から読み直すことで、新たな発見が得られるのである。彼らの先見性や時代的限界を把握することで、「これからの文明論」を構想する手がかりをつかめよう。
書店に平積みされている「いま」を語る本の賞味期限は短い。あるいは本書もすぐに消えてしまうかもしれない。しかし、本書で紹介した著作は、今後も参照されるだろうし、参照されるべきだと思っている。
本書をきっかけに、文中で取り上げた著作はもとより、その他の優れた文明論に関心を持っていただければ望外の幸せである。
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