こんにちは。
今回も先日YouTubeで公開した勉強会『奴隷制と人身売買の歴史』について、映像ではしゃべりきれなかったことを大幅に補足して文章化しようと思います。
なお、YouTube映像では表紙と最終ページを除いた図表は18枚でしたが、今回は4枚追加して22枚となっています。そして、18~20枚目にはかなり残虐な印象を受ける写真も出てきますので、あらかじめご諒解の上お読みいただきたいと思います。
弥助論争の意味すること
下半期にあまりにも重大ニュースが続出したためすっかり影が薄くなった感がありますが、今年の7月にアサシンクリード(「暗殺者の信仰告白」とでも訳すのでしょうか)というゲームシリーズを出しているフランスの企業が、次回作は一時織田信長に仕えたことのある黒人、弥助を主人公にしたゲームだと発表して、かなり話題になりました。
新しもの好きの信長が、イエズス会の宣教師たちの連れてきた黒人奴隷を珍しがってもらい受け、弥助という名を与えてそばに召し使って自分の刀を持たせる程度のことはしたかもしれない、その程度のいたってマイナーな従者としてちらっと登場するだけの存在です。
ところが映画で言えば予告編に当たるデモ映像では、この弥助が鎧兜に身を固めた勇将ということになっている、いい加減としか表現しようのない設定でした。おまけに、戦国時代の日本を描くと称しながら、建物は日本なのか、中国なのか、はたまた東南アジアなのかさえ判断できないようなでたらめな考証しかしていなかったのです。
さすがに抗議が殺到したようで、制作会社は当初の11月発売予定を来年2月に繰り延べたのですが、9月にこの日程変更が発表された頃にはコアなゲームマニア以外にはほとんど注目する人のいないニュースになっていました。
ロシア軍のウクライナ侵攻に対抗したウクライナ軍のロシア連邦内クルスク州の占領、イスラエルによるガザのパレスチナ人ジェノサイドがレバノンのヒズボラ幹部大量暗殺に拡大、そしてアメリカ大統領選での土壇場の民主党公認候補交代といった現実世界の動きがあまりにも大きかったからです。
ただ、この「弥助」騒動は改めてじっくり考えてみる価値のある問題をはらんでいます。戦国末期にイエズス会の宣教師たちに連れられて黒人奴隷が日本にも来たこと自体に疑問の余地はありません。それは、次のような絵がいくつか残されていることからも確認できます。
この時期のイエズス会宣教師たちは確実に奴隷売買にも手を染めていて、黒人奴隷を日本に連れてきただけではなく、日本人を奴隷として買い入れて東南アジアなどで売り飛ばしていたことも、きちんとした文献に記されています。
このことを知った豊臣秀吉がイエズス会宣教師を詰問すると「売る人間がいるから買ったまでだ。悪いと思えば、自国の人間を売り飛ばすほうを取り締まれ」と木で鼻をくくったような答えをしたために、秀吉が激怒し「切支丹禁止令」を出したのもよく知られた話です。
しかし、弥助騒動に便乗したヨーロッパ人の中には「黒人を奴隷として使役しはじめたのは日本人だ」といった暴論を吐く人間まで現れて、一時はかなり論争が盛り上がりました。そのへんは、自分たちが犯した悪事は全部自分たち以外の人種のせいにするヨーロッパ白人の悪癖が出ただけで済みます。
ですが、今を去ること16年も前の2008年から、アカデミズムの世界で「黒人が日本史に果たした役割はもっとはるかに起源が古く、また大きかった」という主張が堂々とまかり通っていたとなると、話は違ってきます。
「黒人たちは遅くとも8世紀ごろから日本で活躍していたのに、日本人は白人崇拝からこうした黒人の存在を意図的に無視してニセの歴史をでっちあげてきた」という論文が『京都大学学術情報リポジトリKURENAI紅』の2008年3月号に掲載されていたのです。
その「Excluded Presence: Shoguns, Minstrels, Bodyguards, and Japan’s Encounters with the Black Other(排除された存在――将軍、旅芸人、護衛、そして日本の黒い他者との出会い)」と題された論文の著者はジョン・G・ラッセルという人です。
現在の肩書は岐阜大学名誉教授となっていますが、2008年当時は京都大学人文科学研究所の客員研究員をしていたのかもしれません。
ただ、その内容たるや坂之上田村麻呂の「出生の秘密」から始まって、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』や第二次世界大戦中から戦後にかけての少年向け冒険マンガにいたるまで、自分の言説に都合のいい箇所だけを切り貼りした典型的なcherry picking(いいとこ取り)に終始しています。
もし私が指導教官だったとしたら「これでは学部学生の卒業論文としても散漫すぎるから、もっと焦点を絞ってきちんと文献考証をして書き直しなさい」とつき返したくなるしろものです。
まず田村麻呂が初代征夷大将軍だったという記述から間違っています。初代は大伴弟麻呂で田村麻呂は副将軍、のちにアイヌ諸部族を糾合した阿弖流為を破った功績を評価されて二代目の征夷大将軍に昇進します。
もちろん8世紀末の征夷大将軍はのちの鎌倉幕府や江戸幕府の将軍のように天皇を儀礼的な君主と奉った上で、日本全土の武士団の統率者であり実質的な最高権力者として君臨する存在ではありませんでした。
さらに「田村麻呂が黒人だった」説の根拠たるや、なんと清水寺に伝わる「秘宝」だった田村麻呂像を特別に許可を得て写真を撮らせてもらったら、次の図表中左側の写真のとおりの顔立ちだったということだけなのです。
たしかに黒人的な風貌と呼べないこともない顔ですが、こういう顔をした東アジア系の人もたくさんいます。
そこでラッセルが持ち出してくるのが「秘宝というからには、何かしら隠さなければいけない事情があったに違いない」という理屈で、その事情とは田村麻呂は黒人だったことにされているわけです。
しかし、日本の仏教史、とくに江戸時代以降の寺社制度史をほんのちょっとでもかじったことがあれば、幕藩体制下の日本の寺は檀家制というかたちで無報酬で戸籍管理を押し付けられていたために、ちょっとでも由来の古そうな仏像、仏画等を片っ端から秘仏、秘宝としてしまいこんで、たまの御開帳で賽銭稼ぎをして何とか存続してきたことを知っています。
この程度の「黒人らしさ」で田村麻呂は黒人だったと断言できるなら、シカゴ・ブルースの2巨頭のひとり、マディ・ウォーターズはどう考えてもオリエンタルの顔立ちだから、シカゴ・ブルースの半分は東洋的な民俗伝承にもとづいているというトンでも音楽史だって成り立つでしょう。
それ以上に問題なのは、大型帆船が2~3ヵ月航行できる安全性・堅牢性を確保する以前の世界で、いったいどんな目的があって、どういう手段を使ってアフリカ大陸に住んでいた黒人が(2~3世代をかけてかもしれませんが)日本にやってきて、武人の家柄として記録の残っている系図の中に割りこめたのかといった問題をいっさい無視していることです。
長い年月にわたって白人に抑圧されつづけてきた黒人にとっては「黒人だってチャンスさえあれば白人と同じようなことをできたはずだ。いや、実際にしていたに違いない」と思いたくなる気持ちはわかります。
ですが、いったい何を目的にそこまで遠距離の旅行をしなければならないのか、まったく動機が不明です。15世紀以前の世界史にも、遠い異国に送られる外交使節団や絶対に遠い土地でしか手に入らないものを買い付けるために延々と旅をする商人の話は出てきます。
そうした明白な目的もなしにユーラシア大陸の3分の2以上の陸路をたどるか、インド洋から太平洋を北上する海路を経るかのどちらかでアフリカ大陸から日本までたどり着くというのは、現在の科学技術でいきなり火星や木星に移住しようとするのと同じくらい荒唐無稽な話です。
三角貿易の時代を支配していたのも「十字軍」精神
実際に、世界で初めて大勢の人間を大海原を越えて運ぶという事業が成立するためには、次の地図でおわかりいただけるように、黒人を人間と見ず、奴隷=使役獣として大量輸送する三角貿易のもたらす莫大な利益が必要不可欠でした。
15世紀末にスペインが西回り、そしてポルトガルがアフリカ大陸南端回りのインドや香料諸島への航海路の開拓に乗り出すまでのヨーロッパは、ユーラシア大陸の既知の文明圏の中でもっとも貧しい地域でした。
そのヨーロッパの中でも西欧・南欧諸国が16~18世紀にかけて突然豊かになったのは、いわゆる産業革命(蒸気機関を利用した綿紡績・綿織物工業の機械制大量生産化)のお陰ではありません。産業革命が本格化するのは18世紀も半ばを過ぎた頃のことです。
その前に、カリブ海諸国でサトウキビを栽培し、そこから搾汁、砂糖精製までを黒人奴隷を使って一貫生産できるようになったので、当初はスペイン・ポルトガル、やがてオランダ・イギリス・フランスが急激に富裕化したのです。
このへんの事情は、エリック・ウィリアムズ著『資本主義と奴隷制』(ちくま学芸文庫、2020年)とシドニー・W・ミンツ著『甘さと権力――砂糖が語る近代史』(ちくま学芸文庫、2021年)の2冊が必読の名著です。
中でももっとも大々的に三角貿易を展開したイギリスの場合、リヴァプールやブリストルの港町から武器や日用品を積んで出港した貿易船が、アフリカ大陸西岸で積み荷を売って黒人奴隷を買い付けます。
その奴隷たちを船倉にすし詰め状態で積み込んで最小限の食糧を与えながら西インド諸島(のちには南北アメリカ大陸のプランテーション集積地)まで航海しますが、劣悪な船内環境や偏西風に逆らう航路で風向きなどによる遅延・漂流もあり、積み込んだ奴隷の約2割は航海中に命を落としていたと言います。
そして、当初は西インド諸島の砂糖やラム酒、のちにはタバコや綿花を積んでイギリスの港町に帰港するわけです。この三角貿易は決してきれいごとの世界ではありません。
それでも、中間航路の目的地が西インド諸島だった頃には、先住民のほとんどはヨーロッパ人が持ちこんだ疫病によって死滅してしまったために、先住民を虐殺しながら黒人奴隷に入れ替えていくという作業は、あまり必要ありませんでした。
しかし、舞台が北アメリカ大陸に移ってからは事情が一変します。広大な平原に適度に草木が生い茂り、それほど大きな自然災害もないところで平和に棲み分けをしていた先住民(インディアン)の諸部族はあまり真剣に武器を開発する必要も感じない状態で暮らしていました。
そこに、突然最先端兵器をもったヨーロッパの白人たちが襲いかかったのです。しかも、彼らはたかだか400~500年前の十字軍遠征のとき同様に、異教徒や異端者は悪魔の手先だから、妥協の余地なく殺し尽くすべきだという信念を持つ偏狭な狂信者集団でした。
今でもアメリカのプアホワイトの中には、当時の十字軍がおこなった無差別大量虐殺を完全に正当化する人たちがいて、次の3枚組の絵をXに投稿しているハンドルネームTemplarpilledさんはその典型です。
「寛容はクリスチャンの美徳ではない」「悪魔と和を結ぶな! 殺せ!!」そして「十字軍の行動は完全に正当だった」ということばを、具体的な歴史的事実に置き換えれば以下のとおりです。
第1回十字軍が1099年にイェルサレムをおとしたときである。十字軍士たちは、まるで血に飢えた野獣のように、老幼男女をかたっぱしから殺していった。非戦闘員だからといって容赦はしなかった。いたるところで人間狩りが行われた。こうした事情について、イェルサレム攻略戦に従軍した南フランスのある聖職者はつぎのようにのべる。
「そこには、感嘆すべき光景がみられた。……イェルサレムの大通りや広場などには、人間の首や腕や足がうず高く積みあげられていた。兵士や騎士たちは死骸をおし分けながら進んだ。……神殿や回廊は、馬上の騎士のひざ、馬の手綱のところまでも朱に染めるほどの血の海だった。……これほど長いあいだ、冒涜をほしいままにしていた人びとの汚したこの場所が、かれらの血にそまることを欲し給うた神の裁きは正しくもまた讃うべきである」。
鯖田豊之著『世界の歴史 9 ヨーロッパ中世』(河出書房新社、1989年)273~74頁
11~13世紀にかけて「自分たちの敵は人間ではなく、悪魔の手先か自分たちより下等な動物だ。だから抵抗する手段のない女性や子どもたちまで皆殺しにしてかまわない」という心情を支えていたのは十字軍精神でした。
16~19世紀にかけては、それが北アメリカ大陸での先住民絶滅戦争に変わりました。たとえば、メキシコのアステカ帝国を滅ぼしたことについても、何ひとつ罪悪感を感じることなく、次のように正当化できるのです。
もちろん、8万4000人という数字にはなんの根拠もありません。スペイン人コンキスタドール(征服者)たちが、なるべく罪の意識を感じないで済ませたいと願っていることを忖度して、生き残ったアステカ人が目いっぱい大げさな数字を言ってみただけでしょう。
そして今、すさみ切ったアメリカの世相の中ではばかることなく「奴らは悪魔の手先か、劣等動物だから皆殺しにしていい」といった心情をぶちまけることができるのが、イスラエルによるパレスチナ人ジェノサイドなのです。
そうとでも考えなければ、もうとっくの昔に抑圧者の側から被抑圧者に立場が変わっているアメリカのプアホワイトまでもが、圧倒的な多数でイスラエルによるパレスチナ人虐殺を支持するはずがありません。
こうして見てくると、今年の大統領選で圧勝したトランプが2期目の国防長官候補として選んだのが次の2枚組写真でおわかりいただけるとおりの露出狂のマッチョ野郎、ピート・ヘグセスだったことには、かなり深刻な意味があります。
力コブをつくったときより大きくくっきり見えるように彫りこまれた刺青、デウス・ウルトこそ異教徒・異端者は皆殺しにすることこそ正義なのだという、この男の信仰告白なのです。
なお、もうひとつの重要閣僚ポストである司法長官に指名するはずだったマット・ゲーツについては、まだ指名を公式に発表する前に「自発的に降りた」ことになっています。
これは、彼が極右であるにもかかわらず、数あるイスラエルロビーの中でも最有力のAIPAC(アメリカ・イスラエル公共問題委員会)からまったく献金を受けていないので、イスラエルロビーから、「あいつは古典的な(つまりユダヤ人は白人のうちに入れてくれない)白人至上主義者ではないのか」という横やりが入ったからのようです。
古典的な白人至上主義まで復活した
現代アメリカの政治地図では、中東でもイスラエル人だけは白人、それ以外の中東、アフリカ大陸、アジア、南北アメリカ大陸、オセアニアの先住民はすべて有色人種として白人よりずっと命の価値が安いということになっています。
ところが、ときおりイスラエルによるパレスチナ人への蛮行があまりにもひどくなると、「白人は有色人種に対して何ひとつ悪いことはしていない。悪いのは全部ユダヤ人だ」という古典的白人至上主義を堂々と主張する連中が出てきます。
次のような投稿をXにしているのも、この手の古典的白人至上主義者です。
黒人を奴隷として使役し、奴隷から生まれた子どもは全部奴隷として父母から奪い取ってできるだけ高く売りつけるといった非情な経営方針によって黒人家庭を崩壊させたのは、もちろん白人プランテーション農園主です。
ところが、古典的な白人至上主義者たちは黒人を奴隷としてこき使って彼らの家庭を崩壊させたのも、ユダヤ人の仕業だと堂々と主張するのです。
もちろん根も葉もない作り話ですが、ユダヤ人の中でもとくに上昇志向の強い人たちのあいだには、白人にそういう言いがかりをつけられるのも無理はないと思える行動をとった人たちも多いのです。
たとえば、三角貿易の中でもとくに利益率の高い西アフリカからアメリカへの中間航路の貿易船の船主は、ほとんど例外なくユダヤ人でした。
ヨーロッパ中で偏見と蔑視、迫害にさらされていたユダヤ人たちの中でも知的エリート層を形成していた人たちは、自分たちが「ヨーロッパ以上にヨーロッパ的でありたい」と熱情をこめて語っていました。
どこでも無権利状態のユダヤ人は常に西欧主義者であり、ヨーロッパ人である。(…)しばしばロシア人以上にヨーロッパ人であり、時にヨーロッパ人以上にヨーロッパ人である。
鶴見太郎著『イスラエルの起源――ロシア・ユダヤ人が
作った国』(講談社選書メチエ、2020年)、127頁
もちろん、ヨーロッパ中でつねに排斥や虐殺の対象となる危険と紙一重の生活をしていたユダヤ人にとって、ヨーロッパ的であることは決して自由とか平等とかのきれいごとではありませんでした。
社会が支配階級と隷属階級とに分かれるものなら、どんな手段を使ってでも支配階級側に潜りこみ、絶対に隷属階級にはならないという決意表明だったのです。アメリカではヨーロッパのいくつかの国とは違って州法でユダヤ人の土地所有を禁じた州はなかったようです。
(ただし、いまだにアメリカ好きの日本人にとってあこがれの的であるカリフォルニア州では日系人の土地所有を禁じていました。さらに、同州では日系人が土地を賃借することさえ禁じました。カリフォルニアはおそらく深南部と同じくらい東洋人差別の強い土地です。)
それでも、とくに南部でプランテーションを経営できるほどの広々とした土地をユダヤ人が手に入れることはむずかしかったでしょう。それなら、比較的入手しやすい貿易船を手に入れてまさに奴隷として隷属する側ではなく、奴隷を農園主に売りつける側に回ろうとしたのです。
このへんの抜け目なさを蛇蝎の如く嫌う古典的な白人至上主義者たちが、現在はイスラエルによるパレスチナ人ジェノサイドを批判していくらか勢いを盛り返しているし、またパレスチナ人との連帯を訴える人たちのあいだにも、彼らと共闘する動きも出てきたのですから、アメリカの政治情勢はいよいよ混とんとしてきました。
第2期トランプ政権の国防長官候補に話を戻すと、おそらく第2期の就任式までにガザでハマスが確保している人質を全員解放しなければ、トランプは本気でガザに住むパレスチナ人皆殺しにOKサインを出すでしょう。
もちろん、計算高い人間なので「軟弱になったアメリカ国民は口ではどんなに威勢のいいことを言っていても、出征した娘や息子が遺体袋に包まれて無言の帰還をすることには耐えられない」と知っているので、カネや兵器を出すだけで米兵は派遣しないでしょう。
しかしトランプからゴーサインを受け取った現イスラエル政府は、ハマスが人質を解放しようがしまいが、生きたパレスチナ人がひとりもいなくなるまでガザでの無差別殺戮を止めないでしょう。
明らかに民間非戦闘員を意図的に大量虐殺しても「ハマスの戦闘員が後ろに隠れていると思った」と言えば、アメリカ政府はおとがめなしでやりたい放題をさせるに決まっているからです。
もちろん、イスラエル政府がやりたい放題をできる直接の理由は、有力政治家やいわゆるオピニオンリーダーの大半がイスラエル=軍需産業ロビーから大金をもらいつづけ、それと同時にエプステイン・コネクションなどを通じて、公開されたら地位も名声も失う映像をイスラエルのモサドに握られているからです。
邪悪だったアメリカ建国の理念
しかし、もっと本質的なところでアメリカ建国の理念がいかに邪悪なものだったかをふり返ってみる必要があります。次の図表をご覧ください。
独立宣言も間近に迫った1770年の英領十三植民地(のちに建国の十三州)それぞれで、奴隷が何人いて、それは州総人口の何%かを示したのが右側の地図グラフです。奴隷の多い南部諸州では総資産の所得に対する比率がいかに高くなっているかを示したのが、左側の棒グラフです。
まず、奴隷が明らかに多数派だったとわかるのは総人口の60%超だったジョージア州とサウスカロライナ州の2州だけ、ほぼ半数だったのが40~60%に塗り分けられているバージニア州、それ以外の10州では奴隷は総人口の40%以内にとどまっていました。
しかし、奴隷人口の多かった南部では奴隷の資産価値が州全体の年間所得の2.5年分というほど高く、南部諸州と北部諸州の資産格差はほぼ全面的に奴隷を大勢持っているかいないかで決まっていたのです。
アメリカが独立を宣言した1776年は、アダム・スミスの主著であり、古典派経済学の礎石を築いた書でもある『国富論(諸国民の富)』初版が刊行された年でもあります。
「一生懸命働くことにほとんどインセンティブが働かない奴隷労働は、生産効率で自由労働者の賃労働に負けるから自然に衰退していく」というアダム・スミスの予言にほんの少しでも魅力を感じた人間にとって、奴隷の資産価値がこんなに高く評価されていたのはかなり残酷な反証と言うべきでしょう。
奴隷主にとって奴隷はおそろしく効率のいい動産だったのです。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。
おそらく練り上げられた計画にもとづいてではなく、そのつど情勢に対応しているうちに自然に形成された社会体制だったと思いますが、まだ大英帝国と名乗ってさえいなかったイギリス連合王国は、アメリカ十三植民地で世界初の全面監視社会を実現してしまったのです。
最大のヒントは、ほぼ疫病蔓延だけで先住民がほとんど死に絶えてしまったカリブ海島嶼植民地で、本国では始末に負えない荒くれ男たちを年季奉公で働かせるより、アフリカ大陸から買ってきた黒人奴隷を使役したほうが生産効率は高いという発見があったことでしょう。
本来縛り首になるはずだった重罪人がカリブ海の島送りになって、5年とか10年とか年季奉公を務めあげれば、自由人になれるという境遇だったとしましょう。もちろんまじめに年季を終えるまで働いた人間もいたでしょうが、隙を見て脱走して自由人の中に紛れこんでしまえば、逃げ延びられる確率はかなり高かったでしょう。
それに比べて黒人奴隷の場合、どこに逃げてもどの農園主の所有物かわからなくても、とにかくだれかの奴隷であることは肌の色だけでわかってしまうのです。脱走して逃げおおせる確率ははるかに低かったでしょう。
つまり奴隷身分の可視化によって、社会全体として奴隷がさぼっていないか、脱走していないかを監視するコストが大幅に下がったのです。
この奴隷主身分、奴隷身分の可視化は、次のような一見牧歌的でのんびりした農園風景にもはっきりと表れています。
右手手前にはおそらくこの農園の主である、年配の白人男性が指揮を取るための短い棒を持って、こちらは測量器か整地の器具を持った若い助手ふうの白人男性と話をしています。左端にはこれみよがしに暇つぶしに女の子の髪を結っている男の子、どちらも当然白人です。
中央には鎌を左手に持ち替えて右手で金属製のコップから水を飲んでいる黒人青年と、彼に水を運んできたやや年配の黒人女性、その間で三つ又の熊手のような農具を持っているのはまだ10代の黒人少年でしょう。
荷馬車一杯に麦わらを積んでいる陰では、父親とは限りませんが大人の黒人男性の手伝いをしている黒人の女の子の姿が見えます。黒人奴隷は常に手足を動かして働いているもの、白人のおとなはのんびり話をしながら全体を指揮しているし、白人の子どもたちは屈託なく遊んでいるという序列がはっきり分かれているのです。
全面監視社会での奴隷労働の効率の良さは、次の地図グラフからも読み取ることができます。
表向きは奴隷解放をめぐって戦われた南北戦争が勃発する約10年前のアメリカ地図ですが、南部だけではなく北西部まで広大な地域が黄色に乗られていて、黒人の自由民比率は2%以下となっています。
また緑色の2.01%~10%、つまり黒人100人のうち自由民は2から10人しかいないという地域もテキサス州中心に南部でかなり多く、この2つの色に塗られているのは基本的に黒人を見れば奴隷と判断しても大きな間違いではなかった地域です。
逆に黒人の99.1%以上が自由民で奴隷は100人のうちひとりにも満たないという紺色の地域もニューイングランド地方からニューヨーク州、そして5大湖沿岸諸州にかなりの面積を占めています。黒人を見れば即自由民と見て間違いがなかった地域です。
青緑に塗られているのは、黒人が10%超~99%まで、もし黒人の中で奴隷と自由民が意図的な棲ませ分けをされていなかったらたいていの地域がこの色に塗られるだろうという地域になるはずですが、現実には非常に細かい地域が点在しているだけで、総面積は異常なほど小さくなっています。
奴隷労働への依存度の高かった地域では、黒人と見ればだれかの奴隷であることがわかるほど奴隷率が高いと、強制的な労働を効率化するには欠かせないきびしい監視のコストが安かったからです。
逆に、黒人の99.1%以上が自由民という地域を意図的につくった理由はなんでしょうか。白人にとって奴隷率が9割以上の地域は、黒人禁猟区でした。
あとでくわしくご説明しますが、黒人奴隷ひとりの価格は比較的安めの時期でも戸建て住宅1戸分というほど高かったため、黒人を殺せば高額の賠償金を請求されることが多かったので、奴隷解放前は奴隷州での黒人リンチはめったにない事件でした。
それに対して、黒人はほぼ全員自由民、つまりだれの所有物でもない地域では、白人が憂さ晴らしに黒人を射殺したり、陰惨なリンチで殺したりしても、ほとんど責任を問われることのない、黒人猟解禁区だったのです。
白人の所有物でないかぎり、黒人を殺しても家族に高額の賠償金を請求されることはあり得ないし、裁判になったとしても陪審員はほぼ確実に全員白人なので、無罪や軽い刑罰で済むことがわかっていたからです。
奴隷解放前の極端に残虐なリンチは、たいていの場合中西部の5大湖周辺あたりで起きていました。
黒人奴隷の境遇がとくに悲惨になるのは、カップルができ子どもが生まれたときです。その子どもは自分たちの子どもではなく、ご主人様の所有物なのです。
まだ幼いうちになま木を引き裂くようなかたちでよその農園に売り飛ばされるかもしれないので、生まれたばかりの子どもの両親は、卑屈なまでにご主人様の言うことを聞いていれば少しでも長く子どもと一緒に過ごせるかもしれないという心境になります。
そして、いつまで一緒に暮らせるかわからないので、子どもが物心ついた直後から一生障害が残るような残虐なせっかんを受けずに比較的平穏に暮らすにはどうすればいいかを懇切丁寧に教えこまなければなりません。
あまりにも残酷な皮肉ですが、こうして両親からあくまでも卑屈に従順になることが無事に生きていくための秘訣だと教えこまれた若い国内産奴隷たちは、アフリカから輸入したばかりでまだ英語もろくに通じないし、卑屈に、従順にという生き方も教えこまれていないので調教に手間がかかる輸入奴隷よりはるかに高額で取引されるようになります。
そして中小農園では奴隷の「肥育」のほうが本業で、綿花栽培は副業といった業態に転換する農園も多くなり、アメリカの奴隷主階級全体として、これ以上アフリカ産奴隷を持ちこまれると国内産奴隷に値崩れが起きるから、もう持ちこまないでくれと要求するようになります。
そろそろ自国民のあいだで奴隷制廃止運動が広がり始めたイギリスの貿易商にとっては綿花の大量供給源であり、まだ品質にはいろいろ難のある量産綿糸や綿織物の大口顧客でもあるアメリカの大農園主の要求とあれば渡りに舟で、この要求に応じて奴隷貿易の廃止を宣言したのが1807年のことでした。
次の2段組グラフの上段には、奴隷の資本としての価値が、1770年から1850年までほぼ年間国民総所得の1.5倍で安定していて、南北戦争が終了した1865年以降も皆無になったわけではなかったことが出ています。
南北戦争の終わりとともに奴隷を無償で解放させられたのは南軍に参加した諸州の農園主だけで、北軍側の奴隷主たちは、奴隷を所有しつづけることができていました。
そして、下段には奴隷の名目価格推移が描かれていますが、まだイギリスの貿易商によってアフリカ産の安い奴隷が入っていた1804~06年にかけて300ドルから200ドル強まで大幅に下落しました。
しかし、1807年のイギリスによる奴隷貿易廃止によって安い奴隷の供給が急減するとともに安定的に上昇しはじめ、南北戦争勃発直前の1860年まで景気サイクルが頂点に達するたびに新高値を付けていたことがわかります。
最後のサイクルの底値近辺だった1850年の約400ドルというのは当時の戸建て住宅1戸分の価格だったと言いますから、そこからさらに800ドルまで上昇した時期には奴隷がいかに高額商品になっていたか、わかります。
そこで、「なぜ奴隷の価格はこんなに高かったのか。これは奴隷が一生かけて働いても、生み出すことができないほどの金額で、奴隷売買については価格メカニズムが働いていなかったのではないか」といった論争が、計量経済史学界でひとしきり話題になりました。
次の2段組グラフでは、奴隷の総合的価値は、その奴隷が労働によって生み出す価値よりはるかに高く評価されていることがわかります。
上段は奴隷の労働力としての価値ですが、1810年の大底で約6万ドルだったものが、1859年の大天井では18万ドル強と3倍を超える伸びとなっています。
下段は相対評価ということですが、1814年の大底で約15万ドルだったものが、1838年の大天井では45万ドル弱と、こちらも天井を打った時期はやや早めでしたがほぼ3倍に上昇しています。
そして、相対評価が労働力としての貢献のほぼ2.5年分にあたるという関係も安定しています。この相対評価の高さが、価格メカニズムが働かなかったためのミスプライシングではないかというわけです。
しかし、この論争は奴隷労働と賃労働との重要な違いを見落とした的外れな論争だったと思います。賃労働では時間決めで買った労働力を投入して得られる成果物だけが買い取った労働力の価値ということになります。
ところが、奴隷を買う場合には全人格を丸ごと無期限で買い取ってしまうわけです。そして奴隷が生んだ子どもは、生まれた瞬間から奴隷主の所有物になるのです。耐用年限が来ても新しい機械を買う必要がなく、新しい機械を自分で生み育ててくれる機械というこの特徴が、労働力としての貢献度よりはるかに高い相対評価をもたらした最大の理由でしょう。
奴隷を機械に見立てれば、稼働期間中生産物を産み出してくれるだけではなく、ふつうの機械なら耐用年限を測りながら毎年減価償却費を積んで、耐用年限が来たときに新しい機械を購入する必要がないばかりか、たいていの場合外部に売り捌けるほど多くの機械を生み、そしてなるべく奴隷主にとって手間のかからないように教育までしてくれるのです。
深く考えるほど悪辣さがわかるアメリカの生い立ち
次の図表は、自分が生まれ育った国土を奪われ、絶滅寸前まで殺されつづけてきた先住民(インディアン)と、生まれ育った国から強引にアメリカまで連れてこられ、自分だけではなく子どもや孫まで奴隷として働かされた黒人が並んだ写真となっています。
はじめは偶然だったかもしれませんが、アメリカ植民地に乗りこんだイギリス人たちは、風土をよく知っていて逃げ出されたら連れ戻すのもむずかしいインディアンは絶滅寸前まで殺しつづけることを意図的に追求するようになりました。
一方、逃げ出しても風土を知らないので野生の動植物を食べて生き延びるのも困難で、おまけに遠目でも奴隷だとすぐわかる黒人を奴隷として使役するシステムは、独立戦争の頃にははっきりとした政策目標になっていたと思います。
にもかかわらずと言うべきか、だからこそと言うべきか、アメリカの著名な白人たちは「もし我々が彼らを皆殺し寸前まで追い詰めなければ、彼らが我々を絶滅させていただろう。だから我々の行動は正しかった」と言いたがります。次に引用するジョン・ウェインのことばはその典型でしょう。
そして、このことばを引用したX投稿者も書いていて「インディアンの残虐さの象徴」と言われることが多かった殺した白人の頭皮を頭蓋骨から引きはがすという行為も、じつはニューイングランドの州政府が老若男女を問わず、インディアンをひとり殺すたびに報奨金を払うという制度から始まったことでした。
「殺した証拠に生首を持ってくるのはとくに大勢殺した場合には大変だろう。だが、鼻や耳をそぎ落としただけではまだ生きている可能性があるからこれもダメだ。頭蓋骨から頭皮をはぎ取るのは、死体相手なら簡単だが、生きた人間が相手だとむずかしい。だから持ってきたインディアンの頭皮1枚当たりで報奨金を渡そう」ということだったのです。
仲間や家族を殺されて、頭皮を剥がれた無残な遺体になっているところを見たインディアンは、復讐のために白人を殺したときにその頭皮をはがすようになっただけです。
とにかくヨーロッパ白人は「我々が奴らを絶滅寸前まで追い詰めなければ、奴らが我々を絶滅させていただろう」という論法で自分たちの行為を正当化したがります。つまり世界中どこに行っても、自分たちの敵は自分たちと同じくらい残虐だと決めつけているのです。
ヨーロッパ帝国主義の序列は先住民殲滅度で決まっていた
本当に残念なことに15世紀末以降のヨーロッパ諸国によるアジア・アフリカ・南北アメリカ・オセアニア侵略の過程でどこがどの位成功したかは、どの程度徹底的に先住民を殲滅したかで決まっていたようです。
イギリスの場合、あれだけ多くの地域に植民地をつくりそれぞれの植民地には先住民がいて、多くの場合そこに黒人奴隷まで持ちこんだのに、白人と黒人の混血を表す単語も、白人と先住民との混血を表す単語も存在しないほど、混血を忌避する植民地統治をしていました。
とくに白人と黒人との混血の場合、見ただけで奴隷と分かる黒人の人種的特徴があいまいになることを極端に恐れていて、だからこそ黒人の血が一滴でも入ったら、その人間は外見が白人にしか見えなかったとしても、黒人奴隷として扱うことにしていたのです。
そしてもちろん、「我らは、すべての人が平等に生を享けたという真実を自明のことと信ずる」という格調の高い書き出しで始まる『独立宣言』でいう「すべての人」には黒人も先住民も入っていないこともまた、自明の前提でした。
今、「そもそも選挙権を成人した国民全体に与えることが間違っている。アングロサクソン系のプロテスタントで、資産を持つ成人男性だけに選挙権を与えるべきだ」と言った議論が、またしても公然と主張される世相になっています。
この一見時代錯誤な主張は、しかしながらアメリカ国民があまり向き合いたがらない冷厳な事実、つまりアメリカが世界最大の軍事力を擁する経済大国にのし上がる過程では、選挙権はごく一部の資産家の男性だけに与えられた特権だったことを正直に指摘しているのです。
この時期に、非特権階級の中でも最底辺の黒人奴隷たちが特権階級だけで構成された連邦政府に楯突いた際の、特権階級による報復は酸鼻を極めるものでした。
こうして見てくると、現在のアメリカ政府がイスラエルによるパレスチナ人ジェノサイドを全面的に支援しているのは、連綿と続く有色人種一般の人命を軽視した上で、白人と対等に渡り合えるとは思うなよという見せしめ政策の一環だとわかってきます。
密接に関連する植民地支配と人間動物園
アングロサクソン系が支配している国での先住民殲滅戦争は決してアメリカに限定された現象ではなく、オーストラリアなどでも行われていたことは、先ほどご覧いただいた表でも明らかですが、オーストラリアではアフリカから黒人奴隷を輸入するには航海期間が長すぎ、奴隷輸送の歩留まりが悪くなることはわかりきっていたにもかかわらず突っ走って、その結果オーストラリアは慢性的に労働力が不足がちな国になっています。
そしてオーストラリアの先住民アボリジニの扱い方は、アメリカンインディアンに対する連邦政府の姿勢すらまだマシと思えるほど過酷なものでした。
そして、この非人間的な差別は多少かたちは変わっても、第二次世界大戦後まで続いていたのです。アボリジニに生まれついたら、どんなに突出した才能を示した人でも、オーストラリア白人の管財人の許しを得なければ自分で稼いだカネさえ自由に遣えないという状態でした。
私が今も鮮明に覚えているのは、私より2歳年下のアボリジニの天才テニス選手イボンヌ・グーラゴングが、こうした差別待遇の不当性を訴えながら、大きな世界大会で活躍しつづけたことです。
そして次は、今回の図表の中でいちばんショッキングな写真2枚をご覧いただくことになります。
左上は、おそらく何度も脱走を試みては失敗して連れ戻され、そのたびに背中に一生傷が残るような鞭打ち刑を受けた黒人男性の写真です。一回でこれだけの鞭打ちを受けたら、生きていられなかったのではないかと思えるほど大きな傷がいくつも残っています。
ですが、この男性は少なくとも自分で物事を判断できるようになってから、それなりの覚悟を決めて脱走しようとしたのでしょう。
それに比べて右下の写真はわずか5歳の女の子が、その日のゴム樹液を搾るノルマを達成できなかった罰として、片手、片足を切断され、その切断された手足をじっと見つめている父親の姿なのです。自分の娘が一生不自由な身体にされてしまうことを防ぐこともできなかった悔しさは想像を絶します。
ヨーロッパ諸国によるアジア・アフリカ・南北アメリカ大陸・オセアニアへの侵略は、こうした残虐行為の集積以外の何ものでもありません。自分たちだってチャンスさえあれば同じことをやってみせるとか、もっと大きなことができるとか考えること自体がおぞましいと思います。
そしてこうした残虐行為を平然とやってのけた国々にはある共通点があります。自分たち以外の人種をすべて自分たちより下等な動物と見て動物園で展示していたという事実です。
アメリカにも、ニューヨーク市にいちばん近い観光地、コニーアイランドに常設の人間動物園がありました。そしてほんとうに残念なことに欧米列強に伍して植民地拡大政策を取ろうとしていた日本にも、日露戦争直前の1903年と第一次世界大戦直前の1913年に、常設ではありませんが万国博の付帯「興行」として人間動物園をおこなった記録が残っています。
次にご覧いただく今回最後の2枚組写真は、ともにヨーロッパの人間動物園で撮影されたものです。
右の写真は典型的な20世紀初頭の人間動物園風景です。でもほとんど裸同然で屈託なさそうに水遊びをしている黒人少年たちは、もう自分たちが見世物にされていることは十分わかる年齢だと思います。
「未開人はそんなこと気にしない」と思いこんでいるヨーロッパ人の傲慢さがよく出ている写真でしょう。
そして左は、第二次世界大戦が終わってから13年も経っている1958年に、わずか2年後にはコンゴ植民地の独立を認めざるを得なくなるベルギー政府が開催したブリュッセル万博の付帯動物園でコンゴ人の女の子を展示し、集まった観衆が動物にエサでもやるようにこの子にお菓子か何かを与えているところです。
ベルギーという国は20世紀初頭にはレオポルド2世が皮肉にも「コンゴ自由国」と名付けた私領で過酷なノルマでゴム園経営をして数多くの死傷者を出しながら、この狂人が死亡する前年まで私領を取り上げることすらできなかっただらしない政府を持っていました。
そして、コンゴの独立を認めてからも国民の熱狂的な支持を受けていた初代ルムンバ大統領を独立翌年に配下のごろつきどもに殺させ、遺体をバラバラに刻むといった蛮行を黙認したとんでもない国です。
この国は人は陽気で、ビールもチョコレートもうまくて、他国を威圧するような軍事力も経済力も持ち合わせていないちょうどいいサイズのヨーロッパ中堅国ということになっていますが、一皮剥けばこういう残虐行為を平然とする連中に長年権力を握らせていた国なのです。
「レオポルド2世はコンゴ経済の発展のために自分のポケットマネーを使った名君だった」などというヨーロッパ人の言うことならなんでも真に受けてひたすら復唱するだけの「自称世界史マニア」の日本人がいるのも困ったものですが。
とにかく、アメリカの邪悪な建国の歴史と、西欧諸国に残虐行為を行わなかった国などほとんどないという事実はしっかり記憶しておくべきでしょう。もちろん、ヨーロッパ諸国に比べればはるかに短期間にとどまったとはいえ、日本もまた植民地獲得競争で近隣諸国に多大な被害を与えたことも、忘れてはいけませんが。
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編集部より:この記事は増田悦佐氏のブログ「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」2024年12月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」をご覧ください。