お世話になってきた教養動画サービス「テンミニッツTV」にて、3/2から新しい講義の配信が始まりました! 今回の番組タイトルは、反知性主義の時代に「いま夏目漱石の前期三部作を読む」。
約10分ごとに区切った講義が毎週日曜に追加され、全9回。従来の2つの番組とあわせて、ご贔屓にしていただければ幸いです。

なぜいま、夏目漱石なのか。『三四郎』・『それから』・『門』の三部作(1908〜10年に新聞連載)は、知性で考える人ほどメンタルを病んでいく過程を、明治末の日本を舞台に描いています。
そもそも漱石は大政奉還と同じ年(1867年)に生まれ、日露戦争の少し前にイギリスに留学し、東京帝大と一高で英語の教師に。いわば明治の歩みとともに育った、「ミスター文明開化」と呼ぶべき存在でした、本来は。
ところが本人は始終、心身の損耗が激しく、1907年には大学を去って朝日新聞に入り、「もう小説だけで食べていく」と宣言してしまう。戦前に帝国大学の権威は圧倒的で、逆に新聞社や作家業は海千山千の業界と見られがちでしたから、令和で喩えれば「ノーベル賞貰ってますが、インプレ稼ぎを仕事にします」みたいな感じでしょうか。

なんで、そんなことになるのか。今日につながる漱石論の第一歩になったのは、江藤淳のデビュー作だった『夏目漱石』(1956年)ですが、そこでは朝日新聞に入社する際、漱石がこう言ったことが注目されています。
大学では講師として年俸800円を頂戴していた。子供が多くて、家賃が高くて800円では到底暮せない。……いかな漱石もこう〔非常勤のかけ持ちで〕奔命につかれては神経衰弱になる。其上多少の述作はやらなければならない。
酔興に述作をするからだと云うなら云わせて置くが、近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである。
『決定版 夏目漱石』新潮文庫、122頁
新字体に改め、段落・強調を付与
江藤の皮肉なコメントいわく、要は書かないとメンタルを病んでしまうと言って作家になった漱石は、実際には「自らの作品が――そして自らに提出した疑問が、新しい神経衰弱を彼に強いるほどのものであることに気づいてはいなかった」。
いま、いくら仕事が忙しくても隙間に「SNSをやめられない」って人は多いですよね。まさに「何か書かないと生きている気がしない」から、そうなるわけですけど、でも傍から見たら、そこまで何か書こうとすること自体がメンタル病んでるんじゃね? って事態でもある。
……まぁそうツッコんだ江藤本人も、病んだように書きまくる「おま言う」だったのですが。

なぜ人はそこまで「書きたい」かというと、①言葉にすることで、世の中の複雑さや、にわかに納得できない物事を理解したい、「考えたい」という欲求がある。ついでに、②それを読ませて「俺って ”考えてる人間” だぜ!」と周りにPRしたい欲もある、このnoteのように(笑)。
2010年頃には「新しい民主主義の基盤だ」と期待されたSNSが、いまやすっかり社会の害悪扱いなのは、短文投稿や書き捨てコメントに最適化しすぎて、「①抜きで②だけやりたい人」ばかりを増やしたからです。炎上に便乗して罵声を浴びせるのは典型だけど、なんせそれを「自ら煽る大学教員」まで居ますからなぁ…(笑えない)。

大学で学問を究めれば、後は成果を広めるだけで、世の中がよくなっていく。そんな文明開化の発想に「ちょい待て。そうはならないんじゃね?」と、最初に身体を張って疑問符をつけたのが、帝大から作家に転じた漱石だった。そうした読み直しがいま、必要ではないでしょうか。
たとえば『三四郎』は、「私が見てきた東大の真相をお話しします」な中身の、ある意味では暴露系YouTuberみたいな小説ですが、そこではまさに、「研究していれば知性があると錯覚する人」が陥る罠が指摘されます。
研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である。人情で物をみると、凡(すべ)てが好き嫌いの二つになる。研究する気なぞが起るものではない。
自分の兄は理学者だものだから、自分を研究して不可(いけ)ない。自分を研究すればする程、自分を可愛がる度は減るのだから、妹に対して不親切になる。
『三四郎』新潮文庫、130頁
恋敵(?)の野々宮の妹・よし子の語り
研究する=「考える」ことは、いったん好き嫌いを保留しないとできないんですよね。つまり、不人情にならないと、学問ってできない。……なんだけど、そうまでして本気で「考えたい!」と思える人って、ある種のニュータイプだから、自ずと世の中から浮いてしまう。
望遠鏡のなかの度盛がいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明かである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかも知れない。……自分もいっそのこと気を散らさずに、活きた世の中と関係のない生涯を送って見ようかしらん。
31頁(三四郎の主観)
そんな学者がやっぱり世間でもウケたい! という欲に憑かれると、どうなるか。社会の全体が「好き嫌い」の二択にハマった瞬間に、自分の専門を結びつけて売り込むようになるわけです。「みなさんウイルスは怖いですよね? なら……」とか、「ロシアは嫌いですよね! なら……」とか。
ダブスタが過ぎるんじゃね? と思うでしょうが、必然的にそうなるのです。アメリカのトランプ現象を典型に、世界のどこでも「大学教授は信じねぇ、そいつらの応援はむしろマイナス」な反知性主義が勃興する理由もまた、そこにあります。

前回の記事のとおり、ゼレンスキーを口論でボコった副大統領バンスになると、ずばり「大学は敵だ」ですからねぇ……(21年11月の講演)。
もう100年以上も前、自身がメンタルに苦しみつつ、大学と「知性」の未来を見抜いた夏目漱石は、なにが処方箋になると考えたのか?
代表作3つを読み解きながら、いま眼前に迫る喫緊の問いを、じっくり「考える」講義となっております。多くの方がご視聴下さるなら幸いです!
参考記事:



編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年3月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。