橋迫瑞穂氏をご記憶だろうか。博士号を持つ社会学者で、2021年にはオープンレターに署名し、Twitterアカウントでの発信にも熱心な人物だ。
このnoteを書いている25年4月の時点では、彼女の名前をGoogleで検索すると、トップは本人のresearchmap。次点がAmazonで、3番目に以下の記事がヒットする人でもある。

1年前の上記の記事に画像を貼ったが、橋迫氏はオープンレターへの非難が高まった21年11月、私に対して「精神科の利用者は他人(レター関係者)を批判するな」との趣旨の差別発言を行い、私からの撤回と謝罪の要求も拒否したため、非常勤の研究員として所属する大阪公立大学に、その不当性に対して、質問状を送られることになった。
簡易書留で発送したのは、2024年の7月22日。期限を9月末日に設定したところ、同月20日付の公印を捺した書面で、以下のとおり回答があった(橋迫氏が当時属した、同大都市文化研究センターの所長名義)。
発言A(2021年11月12日の発言)について、本センターとしては橋迫氏に対し、公開の形で謝罪と撤回を行うように促しております。
強調も原文ママ
リンクは今回付与
あたりまえだが、橋迫氏の所属機関としても、正しいのは私(與那覇)だと認めた形である。そしてリンクを踏んでもらうと、現在はツイートが表示されないので、本人なりに発言の「撤回」はしたのだと思われる。
もっとも、私の知るかぎり彼女が「謝罪」した形跡はないが、私が見落とした可能性もゼロとまでは言えまい。彼女が属する機関がここまで明快に、私の抗議の正しさを認めたのであるから、「ごめんなさいって言ってないだろ!」といった因縁づけは、やめにしておこうと思う。
なにより、「言い逃げ」して黙りこくる面々ばかりのオープンレターの署名者のなかで、あえて先頭に立って批判者(與那覇)と争った橋迫氏のその後に関して、個人的には同情と哀感を覚えざるを得ない事態になっているので、それを報告することで赦免に代えたい。

彼女の名前で検索するとトップ3に表示されるnoteで、私が大阪公立大学に問いあわせる旨を伝えたのは、24年の4月28日だった。同記事のコメント欄に、彼女が以下の書き込みをして連絡を求めてきたのは、5月7日である。
このコメントを見るまで、私は「noteのDM機能」なるものを知らなかった。noteは妙にマメなサービスで、記事に1つ「いいね」(スキ)がつくごとにメールで通知が来るため、noteからのメールは専用のフォルダで受信しないと他の仕事ができない。なので、彼女の連絡にも気づかなかった。
初めてフォルダを開けて彼女の通知を発見し、メールで何往復かのやりとりをした。当方に残っているかぎりで、コメントの翌日にあたる5月8日の内に、橋迫氏から届いたメールは5通である。
真意を判じかねるものが多く苦労したが、私の目には「謝罪してもよいが、私(橋迫氏)が謝るとオープンレターの問題が蒸し返され、北村紗衣氏や呉座勇一氏にも迷惑がかかる」との趣旨に読めたので、「あなたが失礼なことを言った相手に謝ることに、北村氏も呉座氏も関係ないでしょう」と伝えたところ、そこで対話は途絶している。
次に彼女から連絡があったのは、大阪公立大に当方の書簡が届いた後の7月24日で、同月27日までに今度は10通のメールが来ている。
もっとも内容は、オープンレターの呼びかけ人に連絡を取り、弁護士とも協議済みだと誇示するのみで、5月と大差なかった。私としては、彼女には「オープンレターの正当性を守るために、レターを批判した與那覇には頭を下げない!」という心情があるらしい、と再確認するばかりだった。
ところが9月6日、その橋迫氏はTwitterで以下のように表明し、オープンレターの署名簿から離脱する(といっても、運営者が無責任にもレターごと削除して行方をくらましたため、彼女の署名は後から消せないのだが)。
わずか1か月ほどの間に、なにがあったのか。
2024年9月6日
彼女の最初のツイートにあるとおり、鍵を握るのは「神原弁護士」だ。Twitterでも有名な神原元氏のことで、オープンレターの周辺では、①レター呼びかけ人対呉座勇一、②日本歴史学協会対呉座、③北村紗衣対山内雁琳の民事訴訟で、いずれも前者の代理人を担当し、①は「全面勝利和解」(本人の表現)、②③は勝訴判決に導いている。
オープンレターの支持者にとっては、控えめに言って、「有能な味方」の最たるものであることは疑い得ない。それがどうして、最も熱心なレターの署名者だった橋迫氏と、かくも衝突するのか。


かつて私のnoteでも触れたが、2022年8月以来、橋迫氏は「名誉毀損およびプライバシー侵害」を争う民事訴訟の被告だった。24年の5月末に東京地裁で原告が勝訴(=橋迫氏が敗訴)したのだが、この裁判の原告側代理人が神原元氏なのだ。

神原氏は弁護士だから、依頼人の主張を法廷で代弁するのが仕事である。いちどオープンレター側の代理人を務めたからといって、その1300人もいる署名者のひとりと、別件で争うのがいけないなどという法はない。それは橋迫氏も、理解しているものと思う。
ところがどうやら、その民事訴訟の法廷画として、(橋迫氏の視点では)自身が侮辱的に描かれたイラストがTwitterで流布される事態があったようだ。短時間で削除されたそうだが、一時は原告側がリツイートしたために、感情がどんどんもつれていったらしい。

橋迫氏のツイートによると、当該のイラストに抗議したところ、神原氏から投稿を消すように要求され、オープンレターの関係者に相談するも共感を得られず、調停してもらえなかったようだ。
あくまで私の意見論評だが、ざっくり言えば、関連訴訟に勝つ上で最大の貢献をした神原氏と比べたとき、さして役に立たないオープンレター側の「無能な働き者」として、一署名者に過ぎぬ橋迫氏は「切られた」ということになろうと思う。
2024年9月2日
神原氏が送付した文面はこちら。
なお私は、彼女のメールに応えただけで
主張を「送りつけた」事実はない
この後の展開は、なかなかに壮絶だ。民事訴訟で敗れた橋迫氏に、地裁が求めた賠償額は55万円だったが、原告の代理人である神原氏はどうやら、彼女の勤務先(大阪公立大か)に給与の差し押さえを要請したらしい。
これでは、被告となり敗訴したことが勤め先に周知されてしまうし、いい年の大人が「あなたは55万円も払えないでしょ?」と言われたようで、屈辱を覚えても不思議ではない。大阪公立大の対応次第では、220万円を請求して彼女と争ったかもしれない私まで、なんだかいじめっ子になったかのように感じて、気分がよくはない。
2024年9月6日
なお「雁琳氏」は、北村紗衣氏から
非常勤先に弁護士書簡を送られたが、
当時の担当は神原氏ではない
この地獄絵図を見た24年の9月の末に、先述のとおり大阪公立大学から、橋迫氏の発言の不当性(=私の抗議の正当性)を認める書簡を受け取った。それが彼女との一件を、私としては事実のみ報告して、水に流す理由である。
(*)なお橋迫氏は控訴したものの、25年1月に高裁でも敗訴して一審の判決が維持され、その後、慰謝料も支払ったようだ。

もっとも希望があるのは、非情にも橋迫氏の窮状を放置したオープンレターズと異なり、大阪公立大は学外からここまでの圧力を受けても、彼女を「切らなかった」ことだ。改組でセンター名が変わったようだが、少なくとも2025年度の研究員一覧には、前年度に続き橋迫氏の名前がある。
対して、①本人がTwitterで謝罪しており、②弁護士からの法的な請求はなかったにも関わらず、③オンラインの炎上の勢いに恐れをなして(または便乗して)、④非常勤ではなくテニュアに内定していた研究者を実質解雇し、⑤当初その事実の隠蔽を図った「日文研・呉座勇一問題」の比類のない愚かさは、ふたたび明白になったとも言えよう。

とはいえGoogleで検索して3番目に、かつて行った「差別発言」への抗議が表示されてしまう、非常勤の研究者の前途は苦しそうだ。私としても、この件ではずいぶん嫌な思いをさせられたので、寛容さを発揮するにしても「訴えるのはやめる」くらいが限界である。
(呉座氏と同じく)たかだかSNSでの暴言だから、10年・20年と経つなら「忘れられる権利」に則しての削除を考えないでもないが、現に海外では橋迫氏と同じ時期の差別発言を根拠として、トランスジェンダー女優が受賞を逃すペナルティを受けている。私からこれ以上、彼女を擁護することは、国際標準の人権感覚に照らして難しい。
だが諦めることはない。道はある、と思う。
Googleのアルゴリズムに詳しくはないが、今回の記事が前回以上にアクセスを集めれば、同じ著者のnoteである以上、より上位に表示されるのはまちがいない。そして、彼女に侮辱され訴訟になりかけた本人が、「さすがに同情する」と書いているのだ。橋迫氏の印象が好転しないはずはない。
神原元氏との比較で切られたと思しき、現在の橋迫氏に少しでも共感するところがあるなら、ぜひこのnoteをSNSで拡散し、支持を募ってほしい。とりわけ、かつて彼女を鉄砲玉のように酷使した、オープンレターの関係者ほどそうすべきだと思うし、周囲もそれを促してほしい。
昨夏にも書いたとおり、勢いだけはある活動家を「挑発者」として使い潰しながら、足手まといとなるやスパイと同様に見なして切り捨てるのは、20世紀の社会運動の暗い側面だった。そうしたあり方を変える、新たな一歩を踏み出すことが、キャンセルのない社会に向けて必要とされている。

署名した過去の痕跡ゆえに苦境にある仲間のために、このnoteをTwitterで肯定的に紹介し、拡散すること。それがオープンレターの関係者にとっては、汚名を払拭する最後の機会となるだろう。
逆にそうしないなら、彼ら彼女らの唱えてきたフェミニズムとか、シスターフッドとか、インターセクショナリティとかは、すべてが口先だけのニセモノであり、かつての同志でもいま「使えない」なら冷酷に粛清する、前世紀の怪物がかぶる偽装の仮面にすぎないと、自ら認めるのと同じだ。

どちらを選ぶのか、決める権利と責任は、自らオープンレターを立ち上げ、または署名した一人ひとりの手にある。その選択を促し、しっかり見届けることこそが、後出しでこのカタカナ7文字を罵倒し「遊ぶ」のではない、キャンセルカルチャーへのホンモノの批判者であることの証明である。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年4月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。