安重根を「英雄」にして中国や韓国の指導者は後悔しないのか?

八幡 和郎

誤解だらけの韓国史の真実』(清談社。2015年)という本の全面改訂を5月4日に出すために韓国史について改めていろいろ考えたので、何度かに分けて思うところ、知っておいていただきたいことを記事にしたいと思う。

今回は反日テロリストに対して、ともすれば韓国が英雄として顕彰することへの苦言である。

最近、日本国内で生活する韓国人らでつくる在日本大韓民国民団(民団)の任泰洙(いむ・てす)議長ら10人が金沢市を訪れ、市内で設置が計画されている尹奉吉(ゆん・ぼんぎる)記念館に反対する考えを村山市長に伝えたというニュースが流れた。

尹奉吉は1932年に上海の「天長節祝賀式」に爆弾を投げ込んで日本軍指令官などを殺害し、金沢で処刑された韓国人である。これに対して強い反対運動が起き、日韓友好に波風が立ちそうなことを憂慮して任泰洙議長らは行動したわけである。

これに似た問題は、伊藤博文を暗殺した安重根を韓国が英雄として扱うときにも問題が起きる。

安重根 Wikipediaより

伊藤博文は日露戦争後に保護国化したのち、朝鮮統監として赴任していたが、その職を辞して日本に戻った。しかし、ロシア蔵相との話し合いのため赴いたハルピン駅で、1909年10月26日、安重根に暗殺された。

韓国の人が安重根を「英雄」という気持ちはわかるが、伊藤は韓国に対して最も融和的な政策を一貫して主張し、保護国のまま近代化することを主張していた。しかし、その主唱者を失い、またこのような事件の再発を防止するには、より強力な治安維持策を講じるしかないという議論を正当化することで日韓併合を決定付けた。安重根の行為は、まさに伊藤が死の間際に「バカなやつじゃ」と言ったのは当然なのである。

近年、ハルピン駅の現場に朴槿恵大統領から習近平主席への要望で記念館ができたが、無条件に否定しなければならないテロに対して、「正しいテロ」もあると顕彰することは、何とも不見識だった。

韓国では2015年に駐韓アメリカ大使への襲撃事件もあったが、この犯人はかつて駐韓日本大使に投石テロをしかけたというのに、執行猶予がついて収監されていなかった。安重根というテロリストを民族的英雄に祀り上げている国では、こうした事件が起きるのは必然なのである。

当時の朴槿恵大統領の両親も政治的動機から暗殺されましたが、良いテロと悪いテロがあるという限りは、誰もが納得する悪いテロはないということになるし、テロに走れば英雄になれると思う韓国人は今後も出現していくだろう。

中国政府も同様で、もし安重根が英雄なら、中国の指導部を狙うウイグルやチベットのテロリストも英雄だということになってしまう。天に唾するというべきだ。

明治政府が朝鮮半島を支配したかった理由は、朝鮮半島が中国やロシアの領土になったり、あるいはその傀儡国家になったりして、日本の安全を脅かすのを避けるためである。「収奪が目的だった」などということはありえない。そもそも朝鮮には、収奪したくなるような天然資源もなければ、豊かな農業もなかった。

日本が朝鮮に願ったのは、独立国であるにせよ併合するにせよ、朝鮮が経済的に発展して、人心が安定することだったことに疑いはない。

日本としては、李王家が自ら日本のような近代化路線を採用してくれることを望んだが、彼らにとって魅力的でなかった。高宗としては、伊藤からいくら明治天皇のようになれといわれても、立憲主義によって権力を制約され、贅沢ができない明治天皇のようにはなりたくないと思ったのである。

日本の援助で創設された近代的軍隊が旧式軍隊に追放された「壬午事変」(1882年)がケチのつき始めだが、福沢諭吉に私淑した金玉均の追放と暗殺など、王朝側から何度も改革の芽が摘まれてきた。

その結果、日清・日露戦争が起きてしまったわけで、英米などの支持を得て朝鮮を日本の保護国とし、朝鮮統監として伊藤博文が乗り込んだ。

ハルビン駅に降り立った、暗殺直前の伊藤博文

伊藤博文は、併合すると内地と同等の生活水準などを目指す必要が出てくるので、コストに見合わないとして併合には消極的だった。

この伊藤の下で、1907年に副統監となったのが、やはり長州出身でフランスに留学し、駐仏公使も務めた曾禰荒助(外相など閣僚を歴任)である。そして、1909年6月には曾禰が第二代の統監となったが、その直後の10月、伊藤博文はハルビンで安重根に暗殺された。

伊藤は、目賀田種太郎を財政監査長官として招き、日本からの借款で進めたインフラの近代化はまことに優れたものであった。まず重点政策として、学校の建設を大至急で進めさせた。日本の法律の適用を進めたことが批判されたが、外国人にも課税するために条約改正交渉を早く実現するためだった。

しかし、相変わらず朝鮮の守旧派の抵抗は強く、また親日的な人々の間でも党派争いが激しいこともあり、安定した近代化を推進できる基盤は容易につくれない状態だった。そうした中で、1909年の初めには伊藤も併合を是認したが、朝鮮議会を設けるなど、イギリスの中でのアイルランドのように、帝国内の自治領的な形を構想していた。

ところが、安重根が伊藤を暗殺したことで日韓併合が早まり、自治も認めないものとなってしまった。陰謀史観的に勘ぐれば、「安重根の背後には統合推進派がいたのではないか」といいたいくらい愚劣だった。

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