「日本による朝鮮半島経営」が評価されない本当の理由

八幡 和郎

誤解だらけの韓国史の真実 改訂新版』(清談社、5月4日発売)の刊行を機にした、日韓関係史の基礎知識の第3回である。

ヨーロッパでは経済社会の近代化は、ナポレオン戦争によるフランス軍占領のおかげでだいぶ進んだ。

しかしややこしいのは、結果として良い影響を及ぼしたことと、現地での評判にはまったく相関性がないことである。

ドイツでは、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国を解消させ、中世からの多数の領邦国家による群雄割拠をまとまった州単位に近い形まで整理してビスマルクによる統一の基礎を作ったが、その功績は評価されていない。

イタリアではドイツ人による支配を形骸化させたので、評価は基本的に前向きである。

それは国内でも同じである。例えば、戊辰戦争で負けた東北の各藩では、上杉鷹山の米沢藩のような例外を除けば、ひどい悪政で餓死者が続出していたほどだったが、明治新政府になって民衆の生活は見違えるように改善された。

ところが、士族たちは仕事がなくなったので、「戊辰戦争で恨みがある」とか「明治になって差別された」とか言っては、「薩長けしからん」と主張する。とくに長州は恨まれているようだが、戊辰戦争で長州は越後で戦っており、東北戦の主役ではない。

しかも、江戸時代の武士たちの先祖は、ほとんど殿様についてよそから来た人たちであり、地元の人はほとんどいない。また、武士の子孫の多くは東京などに出て行き、地元にはあまり残っていないため、現在の地元民はだいたい農民の子孫である。ところが、それでも没落士族の怨みが地域で共有されている。

それはなぜか、私も考えたが、かつての負け組藩士が教師や言論人として地域に君臨し、彼ら自身が受けた不利益についての恨みを庶民にも共有させているのではないだろうか。何しろ教師と言論人は没落旧支配層にぴったりの職業であり、仕方のないことである。

韓国も同じで、日本統治により庶民の生活は良くなったが、両班などの特権は奪われた。その怨みを、日本統治の恩恵を享受したはずの国民が共有しているのは不合理だが、仕方のないことである。

しかし、経済社会の問題については、主観的意図を問題にせず、客観的に結果で考えるべきである。「けしからん」対「朝鮮のためによかれと思ってしたこと」という主観についての議論は堂々巡りにしかならないが、「結果として朝鮮の人たちに利益、不利益をどう与えたか」を優先して議論すればよい。

日本は朝鮮半島に素晴らしい鉄道網を建設した。韓国人は軍事、治安上の要請に基づいて建設したのだから感謝する必要はないというが、「日本が半島の私たちのために建設してくれた」と言ってくれとは望まない。結果として韓国の発展に役立ったことを評価してもらいたいところである。

インフラについていえば、道路、都市開発、防災、河川や農地の整備などあらゆる分野で改善が行われ、内地より立派なものが多く、内地の開発が手薄になった弊害すらあったくらいである。

金泳三大統領によって取り壊されたのが威風堂々とした朝鮮総督府であるが、それは景福宮の前に建てたことが批判されている。しかし、江戸城でも京都御所でも各地の城でも都市の中心にあるのであり、部分的に建物を整理してその跡地に新時代に必要な施設を建設することは内地でも多い。

朝鮮総督府庁舎 Wikipediaより

むしろ、総督府のかたわらに景福宮など歴史建造物を良心的に保存したというべきである。内地ではそんな配慮はあまりなかったのだから、まことに韓国の伝統文化に敬意を払ったといってよい。

それを金泳三大統領が功名心で壊したのは馬鹿げたことであり、李明博市長(のち大統領)が逡巡ののちにソウル市役所(旧京城府庁)を残したのは感心なことであった。

素晴らしい人口増と食糧事情悪化という誹謗

李氏朝鮮の人口は公式には600万人程度だったが、税や兵役逃れで過少申告していたとみられ、1906年の統監府の調査では1293万人であった。日本統治下になってからは、1300万人(1910年)、1700万人(1920年)、2000万人(1930年)、2400万人(1940年)と順調に増加に転じた。さらに、このほかに327万人が内地や満洲に移住してチャンスを求めた。

米の生産は、1920年に1200万石だったものが、戦時経済に入る前の1937年には2000万石に増えた。

しかし、人口増加に追いつかず、また、内地への移出によって収入は増えたが庶民の消費に回る分は減ったという都市伝説がある。これは、東畑精一・大川一司による1935年の有名な論文で、統合直後からその20年後における一人あたりの消費量が、0.70石が0.45石に減ったと唱えたことを受けたものであり、韓国の歴史教科書でもこのあたりが強調されている。

しかし、東畑らは1939年にこの数字が誤りだったことを認め、それぞれ0.59石と0.55石でほぼ横ばいであったと修正した。また、同じ時期には、肉や魚介類の消費が伸び、カロリーで計算すれば落ち込みはないことが明らかになっている。

日本でも江戸時代に比べて現在では米の消費量は数分の一になっており、いずれにせよ、あまり意味のある数字ではない。

土地問題や農地については、土地制度を近代化する過程で日本人による収奪が行われたと主張する人がいるが、内地における土地制度の近代化に比べて特別なことをしたわけではない。また、朝鮮総督府の所有になったとしても、そこで得られた利益を内地に持ち帰ったという事実はなく、日本の財政からはひどい出超であり、総督府の予算として朝鮮の発展に使われただけである。

もちろん、内地においても大正から昭和にかけて大地主を主体とした政党政治が進展するにつれて、政友会などに属する地方名望家の発言力が強まり、藩閥政府時代に比べて彼らの利益になる政策に傾斜していた傾向はあるので、それと同じ傾向が朝鮮でもなかったかというと、完全には否定できないが、これも日本からの収奪ではない。

日本では、それが朝鮮にも波及した可能性がある。いずれにせよ、日本統治下の朝鮮では、産業構造に占める農業の地位は内地と同じように下がったが、優れた農業土木技術の導入や新しい品種の改良などもあって、朝鮮の農業は大発展し、また、内地に移出する一方、満洲などから食料も輸入されて、食生活は改善していった。

日本統治のもとで賤民の解放など社会的平等化も進んだ。「苦しかったけれども、それなりに生活していた朝鮮の農民は、昔に比べてずっと不安定な生活に陥れられた」などと日本の左翼的な人の中には主張する人がいるが、それは江戸時代の農民やアメリカでの南北戦争以前の黒人奴隷などの世界に対する前近代礼賛論に共通した物言いである。

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