「書き言葉としての韓国語」は日本人が創り普及させた

八幡 和郎

誤解だらけのの真実 改訂新版』(清談社、5月4日発売)の刊行を機にした、日韓関係史の基礎知識の第4回である。

しばしば、日本統治は韓国の人々から言語を奪ったと言われる。しかし、これは事実に反する。たしかに、昭和になってから、教育などを日本語に統一しようという動きは出てくるが、そもそも、日本の影響が始まるまで、書き言葉としての韓国語はなく、中国語が公用語だった。

現在の韓国では、ハングルだけが使われているが、かつての漢字ハングル混じり文では、ハングルの部分を仮名に入れ替えると、ほとんど日本語と同じであった。

それは、漢字ハングル混じり文をつくったのが日本人だったからである。福沢諭吉の弟子で備後福山出身の井上角五郎という人物がいた。彼は朝鮮政府の顧問となり、漢文による官報の刊行を始めたが、やがて漢字ハングル交じり文を日本語を参考にして考案し、1886年に「漢城周報」を発行した。

当時の朝鮮では正式文書は漢文で、ハングル(諺文)の使用は補助的なものにとどまっていた。このため井上は、ハングルの活字をつくるために日本から職人を招聘しなければならなかったほどである。

ハングルは1446年に李氏朝鮮の名君・世宗が「訓民正音」の名で公布したが、中国文明を絶対視する保守派の抵抗により、普及は進まなかった。

日本統治下では、小学校では原則として朝鮮語で教育が行われていたため、それまであまり普及していなかったハングルの使用が急速に進んだ。朝鮮総督府は1912年に初めて朝鮮語の正書法である「普通学校用諺文綴字法」を、1930年には「諺文綴字法」を制定し、きちんとしたかたちでハングルが使えるようになった。

普通学校用諺文綴字法 Wikipediaより

こうした意味で、日本統治が韓国の人々から言語を奪ったどころか、ハングルを正規の文字として確立したのは日本人であり、書き言葉としての朝鮮語は日本人が主導し、日本語の強い影響のもとで成立したと言っても過言ではない。

教育は、日本統治の積極的な遺産としてもっとも評価されるべきものである。日韓併合以降、教育は急速に普及し、終戦時には国民学校への就学率が男子76%、女子33%に達していた。内地に比べて半世紀遅れてはいたが、明治維新と日韓併合から数えれば同じであり、着実な進展であった。

また、李氏朝鮮では民衆文化のようなものはあまり評価されていなかったが、それに光を当てたのは柳宗悦など日本人の民芸運動家であった。千利休の時代から、日本人は朝鮮の人々が気づかなかった朝鮮民衆文化に注目し、評価していたのである。

さらに、仏教も抑圧され寺院も荒れていたが、それを復興していったのは朝鮮総督府の功績である。韓国へ旅行して古い寺へ行くと、観光ガイドが日本が荒らしたかのようなことを匂わせるが、時系列で責めると、李氏朝鮮時代に荒れ果てていたのを朝鮮総督府が復興したことを認めることになる。ともかく、総督府の朝鮮伝統文化の再評価、保全、発展に尽くした功績は驚くべきものである。つまり、中国の影響から抜け出させるために韓国の伝統文化に光を当てたのは朝鮮総督府なのである。

景福宮も、その一部に総督府が建てられたが、景福宮前の素晴らしいメインストリートも総督府が整備したものである。

景福宮 Wikipediaより

むしろ、韓国の人々の歓心を買うために日本本土が犠牲にされたともいわれており、また、結果として韓国の人々が自分たちの歴史と文化に自信を持ちすぎて、日本を蔑視するようになった感すらある。

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