黒坂岳央です。
「育ちのいい人の特徴」「理想のふるまい」といったテーマは、常に高い関心を集めており、書籍やウェブ記事でも頻繁に取り上げられている。多くの人が「育ちがよく見られたい」「育ちの良さを身につけたい」と願っている証拠だろう。
しかし、筆者はそれらに疑問を抱いている。というのも、そこで語られる「育ち」は、所作や言葉遣いといった後天的な要素ばかりであり、本質的な部分に触れられていないからである。
本来、「育ち」とは後から身につけられるマナーや礼儀ではなく、人格の根幹に深く関わる“固定値”だ。大人になってから突貫工事で身につけられるのは、あくまで表面的な立ち振る舞いに過ぎず、真の「育ち」は隠しきれないものとしてにじみ出る。
実際、身なりや言葉遣いが洗練されていても、どこか思考や人格に違和感を覚える人物に出会ったことがある人は多いだろう。つまり、本質的な育ちは表面には現れにくいが、ふとした瞬間に確実に表出する。
では、「育ちの良さ」とは何によって決まるのか。筆者が一つだけ挙げるとすれば、それは「自己愛」である。

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真の育ちは自己愛
人間の自己愛は、幼少期に親からどれだけ深い愛情を注がれて育ったかによって大きく左右される。それは、金銭的な豊かさや教育環境の整備以上に重要な要素である。
親から一貫して「あなたは大切な存在だ」と承認され、安心感を与えられて育った子どもは、自分自身の価値を信じることができる。そして、その確信が自己愛として心の中に根を張る。
こうした子どもは、自分を大切に扱うと同時に、他人のことも丁寧に扱う。他者と健全な距離感を保ち、無理に好かれようとしたり、逆に過剰に攻撃的になることも少ない。これは単なるしつけや教育では得られない“核の強さ”であり、まさに人格の根幹を成すものと言える。
よく「もっと自分を大事にしなさい」と言われるが、それを「はい、わかりました」と簡単に実行できる人はいない。自己愛とは、後天的な訓練で身につくものではなく、人格形成の初期段階で育まれる“内なる安心感”だからである。
だからこそ、自己愛は育ちを見極める上で、唯一無二の指標となるのではないだろうか。
育ちは後から変えられない
もし幼少期に十分な愛情を受け取れなかった場合、その“空白”は大人になっても消えず、さまざまな形で現れてしまう。
典型的なのは、過度な承認欲求である。他人の評価に依存し、自分の価値を外部に求め続ける。結果として、自分を過小評価して安売りするような言動に走るか、逆に必要以上に自分を誇示し、聞かれてもいないのに自己PRを繰り返すといった歪みを生む。
また、自分を信じることができない人は、他人のことも信じられない。他者の善意や愛情を素直に受け取ることができず、防衛的で疑い深くなってしまう。その一方で、ある人物に依存しすぎて見境なく信頼してしまい、結果的に利用されたり、裏切られて深く傷つくということも起き得る。
どれだけ丁寧な言葉遣いや上品なマナーを身につけていても、こうした心の傾向は言葉の端々や人間関係にじわりと表れ、「あれ?」と周囲に気づかれてしまう。これがまさに、“育ちの歪み”なのである。
健全な承認欲求
筆者は決して裕福な家庭で育ったわけではない。ブランド品やエレガントな習い事などとは無縁であり、実家も経済的に非常に厳しく、最終的には借金を抱えて失われてしまった。
だが、親からの愛情だけは非常に深かった。母はシングルマザーとして忙しい日々を送っていたが、母は悩みに対して、夜を徹して耳を傾けてくれた。「どんなときでも味方でいる」と無言で伝え続けてくれた存在であった。
その経験は、確かな“安心感”として筆者の中に残っている。自分は誰かに必要とされ、受け入れられている。この確信は、自分を支える土台となった。
もちろん、20代の頃はつまらない承認欲求にとらわれたこともあった。お金もないのにブランドバッグを買っては見せびらかし、自分を大きく見せようとしていた恥ずかしい黒歴史もある。
だが、それが一過性で済んだのは、自己の根幹が満たされていたからだと今は確信している。仕事を通じて誰かに感謝されたり、役に立てたと感じる経験が重なるうちに、暴れ狂う「悪い承認欲求」は自然とおさまっていった。
そして承認欲求といってもすべてが悪いわけではなく、今では「どうやって他者に価値を提供し、感謝を集めるか?」へ自然に意識が向けることが出来たと思う。
元を正せば、それは母から受けた愛情でこの人格が出来たと考えている。親には感謝しかないと思っているのだ。今度は筆者が自分の子供たちへ愛情をつなぐフェーズにいる。
◇
現代は、情報もスキルも後から身につけられる時代だ。しかし「育ち」だけは、子ども時代の土壌によってほぼ決まってしまう、数少ない“取り替えのきかない価値”であるのかもしれない。
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