新教皇の選出と尊敬するカトリック中興の祖レオ13世

新ローマ教皇を選出するコンクラーベは、アメリカ・シカゴ生まれで長くペルーにおいて活動し、ペルー国籍も保有するロバート・フランシス・プレヴォストを新教皇レオ14世として選出した。

NHKより

本稿では、その意義について解説する。レオ14世は、20世紀初頭に近代社会との和解を推進した教皇レオ13世(在位:1878年–1903年)の継承者としての立場を鮮明にした人物である。筆者が学生時代に初めて執筆した小論文も、レオ13世とキリスト教民主主義を論じたものであり、その後も繰り返しこのテーマに触れてきた。

以下に、レオ13世の略伝を記す。

レオ13世(1810–1903)

中世の封建的思想の象徴とされるローマ教皇が、現代社会においても生き続けているのは驚くべき現象であり、それを可能にした最大の功労者こそ、19世紀末に近代社会との和解を実現した教皇レオ13世である(在位:1878年–1903年)。

レオ13世
Wikipediaより

本名ジョアッキノ・ペッチ。母は中世ローマの英雄的政治家リエンツィ(ワーグナーのオペラの主人公)の子孫、父はナポレオンに仕えた軍人であった。68歳で教皇に選出され、以後25年間にわたり教皇位にあった。

フランス革命以降に進展した自由主義・民主主義、さらに近代科学の発展は、ローマ教会にとって大きな試練であった。宇宙観や人間観に関する教義が否定されたことに加え、教会が本来の信仰とは無関係な財産や政治勢力との結びつきを維持していたことも大きな問題であった。

グレゴリウス16世(在位:1831年–1846年)は、フランス七月革命(1830年)と二月革命(1848年)の狭間に教皇であったが、鉄道を「地獄への道」と呼んで拒否するほどの反動的姿勢を取ったため、教会は危機に陥った。続くピウス9世(在位:1846年–1878年)は一時自由主義的と評されたが、オーストリアと戦わないと表明したことで声望を失い、カブール首相やガリバルディらによるイタリア統一運動と対立した。

結果として、1860年にイタリア王国が教皇領を除いて成立し、1871年にはローマも接収された。これにより教皇は「バチカン捕囚」を宣言し、第1回バチカン公会議を開催して「教皇不可謬説」を採択、またドイツのビスマルクとは「文化闘争」を展開した。

レオ13世はビスマルクとの間で政教和約(コンコルダート)を締結し、教会の統制力を社会に復権させた。ドイツでは、公教育における非宗教性を緩和し、教会税の徴収にも協力を得た。興味深いことに、政教分離の原則が憲法上徹底されているフランスでも、当時ドイツ領であったアルザスやロレーヌにおいては、「条約は憲法に優先する」との理由で同様の運用が今も続いている。

より社会的に大きな影響を及ぼしたのは、1891年の回勅「レルム・ノバールム」である。これはアリストテレスの分配的正義に基づき、雇用者は労働者の弱みにつけ込むことなく、家族を養うに足る賃金を支払う義務があるとし、国家にも福祉を保障する制度設計を求めた。また、私有財産の保持は人間の本性に合致するが、それは善用されるべきものであるとした。

個人や家庭は国家に先行する社会単位であり、教会や各種団体も独自の役割を有する。国家はそれらに優越するものではないとの論理から、労働組合は是認され、政治体制についても、教会の道徳観や自立性を侵害しない限りにおいて多様性が認められた。つまり、共和制の容認も含まれていた。

この原理のもと、カトリックと民主主義の両立が可能であることが明示され、キリスト教民主主義という政治運動が誕生した。これは、カトリックの社会教説に基づき、自由放任や極端な社会主義に反対しつつも、教会による支配は拒む立場をとるものであり、キリスト教民主主義政党を生むに至った。このような宗教と政党の関係はカトリック以外にも広く影響を及ぼし、日本における創価学会と公明党の関係も類似の構造と見なされている。

このようにして、ローマ教会と近代社会は和解に至った。しかしながら、レオ13世の時代には「バチカン捕囚」問題の解決には至らず、その解決はピウス11世とムッソリーニとの間で結ばれた「ラテラノ協定」に持ち越された。同協定によりバチカン市国が設立され、教皇領に関する金銭的補償もなされることとなったのである。